清河八郎


幕末の尊皇攘夷運動の中心人物で
浪士組を結成し倒幕をもくろむも
近藤勇ら反対派によって新選組が
誕生するきっかけとなったのは?
太村松蔵八
吉平郎河清
清河八郎(答)
43%

清河 八郎(きよかわ はちろう、天保元年10月10日(1830年11月24日) – 文久3年4月13日(1863年5月30日))は、江戸時代末期(幕末)の庄内藩出身の志士。田中河内介とともに九州遊説をして尊王攘夷派の志士を京都に呼び寄せ、一方で浪士組を結成し新選組・新徴組への流れを作り、虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となった。
幼名は元司、諱は正明、号は旦起、木鶏。本名は齋藤正明で、清川八郎と改名したのち、清河八郎を名乗った。山形県庄内町の清河神社に祭神として祀られている。位階は贈正四位。

>その後、山岡鉄舟らを通して松平春嶽(幕府政事総裁職)に急務三策(1. 攘夷の断行、2. 大赦の発令、3. 天下の英材の教育)を上書する。尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用し、松平忠敏のもとに浪士組結成が許可された(234名)[7]。上手く幕府を出し抜いて、今度は佐幕派を京に集め出した。文久3年(1863年)2月23日、将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛として浪士組を率い京へ出発。到着した夜に浪士を壬生の新徳寺に集め、本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にあると述べる。鵜殿鳩翁が浪士組隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に、京に残留することを希望する者の取りまとめを依頼し、攘夷に反対した根岸友山・芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らが残留、袂を分かった[8]。翌日、200名の手勢を率い朝廷に建白書の上申を願い出で、幸運にも受理された。
引用元:清河八郎 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B2%B3%E5%85%AB%E9%83%8E

清河八郎
きよかわはちろう

[生]天保1(1830).出羽,庄内
[没]文久3(1863).4.13. 江戸
幕末,佐幕派のなかの尊王の志士。出羽国東田川郡清川村の郷士斎藤治兵衛の子。当初は清川とも書いたが,正明,大谷雄蔵,日下部 (くさかべ) 達三などの変名も用いた。安積艮斎 (あさかごんさい) に師事して儒学を修め,千葉周作について剣を学び文武の道に秀でた。のち上洛して尊王の志士と交遊し,みずからも過激な攘夷論者となり,京都で田中河内介らと攘夷運動にたずさわったが,文久2 (1862) 年,薩摩藩が攘夷派を制圧したので江戸に帰った。同3年幕府の浪士組 (のちの新撰組 ) 結成に参加したが,近藤勇らと意見が合わず,麻布一ツ橋で暗殺された。
引用元:清河八郎(きよかわ はちろう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B8%85%E6%B2%B3%E5%85%AB%E9%83%8E-16116