「相馬大作」事件


1821年に弘前藩主・津軽寧親が
狙われた暗殺未遂事件のことを
犯人の盛岡藩士・下斗米秀之進
の別名から◯◯◯◯事件という?
馬助忠相合
河原大蔵作
相馬大作(答)
33%

相馬大作事件(そうまだいさくじけん)とは、文政4年4月23日(1821年5月24日)に、南部藩士・下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)を首謀者とする数人が、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を襲った暗殺未遂事件。
秀之進の用いた別名である相馬大作が事件名の由来である。杜撰な計画と、事件前に裏切った仲間の密告により、津軽寧親の暗殺に失敗したため、秀之進は南部藩を出奔した。後に秀之進は幕府に捕らえられ、獄門の刑を受けた。
引用元:相馬大作事件 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E5%A4%A7%E4%BD%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6

津軽 寧親(つがる やすちか)は、江戸時代中期から後期の旗本、大名。交代寄合陸奥黒石領の第6代当主。のち陸奥弘前藩の第9代藩主。

文政4年(1821年)には家格が盛岡藩より上昇したことを妬まれて、盛岡藩関係者による相馬大作事件と呼ばれるテロ事件が発生している。文政8年(1825年)4月10日に家督を次男の信順に譲って隠居し、向陽館・広州と号した。
以後は俳句を楽しみ、如山・栖鶴・琴亭という俳号を残している。天保4年(1833年)6月14日、江戸で死去した。享年69。
引用元:津軽寧親 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E5%AF%A7%E8%A6%AA

相馬大作
そうまだいさく
(1789―1822)

南部(盛岡)藩の浪人。檜山(ひやま)騒動(南部騒動)の首謀者。本名は下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)。父は南部藩士。1803年(享和3)15歳で江戸に出、平山行蔵(ひらやまぎょうぞう)(子龍(しりょう))の門に入り修業。帰郷して福岡(岩手県二戸(にのへ)市)に道場兵聖閣(へいせいかく)を開き、兵法と砲術を指南する。津軽(弘前(ひろさき))・南部両藩の対立は立藩以来のものだが、江戸中期には家格競争となって表れた。08年(文化5)津軽藩は10万石に高直りし、20年(文政3)藩主津軽寧親(やすちか)はついに侍従に昇進した。これを不正によるものと憤激した大作は、関良助らと謀り21年4月4日、白沢村(秋田県大館(おおだて)市)岩抜山(いわぬきやま)(一説に矢立(やたて)峠とも)で寧親襲撃を企てたが、事が露見し暗殺計画は失敗した(檜山騒動)。江戸へ逃れ相馬大作と変名し道場を開いたが、翌年正月捕らえられ、8月小塚原(こづかっぱら)で獄門に処せられた。大作は北方警備にも強い関心を抱いていた人物という。[工藤睦男]
引用元:相馬大作(そうまだいさく)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E5%A4%A7%E4%BD%9C-89710