『天正記』大村由己(ゆうこ)『信長公記』太田牛一


次の戦国時代に関する資料と
その著書の正しい組み合わせを
選びなさい
天正記───大村由己
信長公記───太田牛一
三河物語───大久保彦左衛門
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江戸時代の旗本
一心太助
家康・秀忠・家光に仕える
「天下のご意見番」
大久保彦左衛門(答)
遠山景元
大岡忠相
水野十郎左衛門
引用元:「大久保彦左衛門」徳川三代に仕えた「天下のご意見番」家来「一心太助」 江戸時代の侠客「大前田英五郎」「新門辰五郎」「水野十郎左衛門」 http://seethefun.net/%E6%96%87%E7%B3%BB%E5%AD%A6%E5%95%8F/20033/

大村由己
おおむらゆうこ

[生]天文5(1536)?
[没]慶長1(1596).9.6. 大坂
安土桃山時代の文学者。号,梅庵,藻虫斎。播磨国三木の人。相国寺の仁如集堯に漢学を学び,古典,歌学にも造詣が深かった。大坂天満宮に住し,豊臣秀吉に御伽 (おとぎ) 衆として仕え,秀吉の事績を軍記物『播州征伐記』『惟任退治記』『柴田退治記』や『聚楽行幸記』など (まとめて『天正記』ともいう) に書き,また謡曲 (太閤能) ,幸若舞曲などに脚色した。和歌,連歌,俳諧,狂歌も詠んだ過渡期の典型的文人。ほかに『梅庵古筆伝』がある。
引用元:大村由己(おおむらゆうこ)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%94%B1%E5%B7%B1-39617

大村 由己(おおむら ゆうこ、天文7年(1536年)? – 慶長元年5月7日(1596年6月2日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての学者・著述家。播磨国三木の出身。号は藻虫斎梅庵。初め僧籍にあったが、還俗して豊臣秀吉に御伽衆として仕えた。秀吉の伝記である『天正記』の著者として知られる。

>天下統一に邁進する秀吉に近侍して、彼の軍記である『天正記』などを記述した。いずれも秀吉の偉大さを殊更強調して書かれたものであり、由己は豊臣政権の正統性を訴えるスポークスマンとしての役割を担っていたのではないかと推察されている
引用元:大村由己 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%94%B1%E5%B7%B1

太田牛一
おおたぎゅういち
[生]大永7(1527).尾張
[没]?
安土桃山時代の武人,『信長公記』 (16巻) ,『大かうさまくんきのうち』 (1巻) などの著者。尾張国春日井郡安食村生れと伝えられる。通称又助。信長,秀吉に仕え,のち秀吉の側室京極殿 (松丸殿) 付きの士となった。この頃から信長および秀吉の功績を中心とする記録を綴っていたが,慶長 10 (1605) 年前後に完成した。ほかに『豊国大明神臨時御祭礼記録』『内府公奥州軍記』『関ヶ原御合戦双紙』『今度之公家双紙』などの著書がある。
引用元:太田牛一(おおたぎゅういち)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E7%89%9B%E4%B8%80-39345

大久保彦左衛門
おおくぼひこざえもん

[生]永禄3(1560).小田原
[没]寛永16(1639).2.1. 江戸
江戸時代初期の旗本。忠員の8男に生れ,初め忠雄,のち忠教 (ただたか) ,字は平助。天正4 (1576) 年 16歳の初陣に戦功をあげ旗本に列せられ,以来徳川家康に仕えて功績があった。大名になることを固辞し,「天下の御意見番」として家康の諮問にこたえたという。のち,秀忠,家光に仕え,戦国時代生残りの勇士として旗本のなかに重きをなした。その著『三河物語』 (3巻,1622) はいわゆる三河武士の精神を典型的に示したもの。禄高は三河額田郡に 2000石。邸跡が東京都千代田区神田駿河台にある。 (→一心太助 )
引用元:大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BD%A6%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80-39138

一心太助(いっしんたすけ)は、小説・戯曲・講談などに登場する架空の人物とされている人物。初出は「大久保武蔵鐙」とされる。

人物[編集]
職業は魚屋。義理人情に厚く、江戸っ子の典型として描かれることが多い。三代将軍徳川家光の時代に、大久保彦左衛門のもとで活躍したとされる。
名の由来は、腕に「一心如鏡、一心白道」(いっしんにょきょう、いっしんびゃくどう)の入れ墨があったことから。一心如鏡は読み下せば「一心鏡の如し」、白道は二河白道(にがびゃくどう、極楽浄土へ続くとされる道)を指す。
架空の人物というのが定説であり、神奈川県小田原の老舗魚問屋「鮑屋」の主人がそのモデルだとされている。一方、松前屋五郎兵衛建立の「一心太助石塔」と書かれた太助の墓が、港区白金立行寺の大久保家墓所の傍、それも彦左衛門の一番近くに立っており、太助は実在の人物で、若いころ大久保彦左衛門の草履取りだったとも言う。
大久保彦左衛門は小田原藩主大久保忠世の弟であり、現在でも魚市場で有名な東京の築地は、当時小田原町と呼ばれたほど小田原から移り住んだ者が多くいた町だったが、物語の原型はそこで成立したようである。
実録本『大久保武蔵鐙(あぶみ)』によって大久保政談にからんで登場[1]、浅草茅町の穀商松前屋五郎兵衛の無実を晴らす役割を果たした。
数多くのドラマ、演劇などに登場し、ドラマ中、彼のトレードマークの一つ「一の魚」は魚運搬専用のトラックなどに多く採用されている。
引用元:一心太助 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%BF%83%E5%A4%AA%E5%8A%A9