兄は幕臣・鳥居耀蔵
『通航一覧』
『藩鑑』
日米和親条約の日本側全権
林復斎(答)
林信隆
林述斎
林鵞峰
37%
連想
漢文体の歴史書
全310巻
後陽成天皇まで
林羅山・鵞峰父子が編纂
本朝通鑑(答)
次のうち、江戸時代に
南町奉行を務めた人物を
全て選びなさい
鳥居耀蔵(答)
酒井忠清 大老
荻原重秀 勘定奉行
大岡忠相(答)
遠山景元(答)
堀田正俊 大老
水野忠邦 大老
川路聖謨 かわじとしあきら 勘定奉行
1084年に中国・北宋の
司馬光が完成させた
編年体による歴史書は?
本歴朝通鑑
紀史記資治
資治通鑑(答)
しじつがん
引用元:『日本外史』頼山陽の歴史書「源氏から徳川氏まで」『史記』司馬遷・紀伝体『漢書』班固 『資治通鑑』北宋・司馬光による歴史書「為政者の鑑」 『本朝通鑑』林羅山・鵞峰父子が編纂 http://seethefun.net/%e6%96%87%e7%b3%bb%e5%ad%a6%e5%95%8f/1564/
林 復斎(はやし ふくさい)は、江戸時代末期の儒学者、外交官。幕府朱子学者林家当主。復斎は号。岩瀬忠震、堀利煕は甥にあたる。
>折しもアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー提督率いる黒船が浦賀に来航し、世情が騒然していた。復斎は幕府に命ぜられて、永禄9年(1566年)から文政8年(1825年)頃までにいたる対外関係史料を国別・年代順に配列した史料集『通航一覧』(350巻)を編纂。また各藩大名の歴史をまとめた『藩鑑』も編集。両書を編纂した功績で同年12月に賞賜されている。
>3月3日(1854年3月31日)、横浜村において日米和親条約が締結。条文は日本文、漢文、英文の3種類で交換されたが、日本文での署名者は復斎を筆頭としている。ただし、日本側が英文版への署名を拒否したため、国際法上の条約締結の体裁が整わず、また条約正文を何語にするかも結論が出なかったため米国側は困惑した。そこで新たな開港地として予定されていた下田・函館をそれぞれ米艦隊が視察した後、下田で再び交渉を行うこととなった。
覚弘と鵜殿鳩翁が下田取締掛として任命され、目付岩瀬忠震・永井尚志なども下田へ派遣されたが、依然としてペリーとの交渉役となったのは復斎であった。この地における交渉で、漢文版を廃して条約正文を日本語・英語・オランダ語の各語版とすること、英文版へ日本側全権が署名すること、異国人遊歩地の範囲や批准書交換などその他の手順が決定され、下田追加条約(additional regulations、日本側は「条約附録」と呼んだ)が締結。復斎は大任を果たした。
引用元:林復斎 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%BE%A9%E6%96%8Eはやしふくさい【林復斎】
1800‐59(寛政12‐安政6)
江戸後期の幕府の儒官。諱(いみな)は韑(あきら)。林述斎の第6子。書物奉行,二丸留守居,先手鉄砲頭,西丸留守居を歴任。1853年(嘉永6)本家相続により役を辞し,大学頭を名のり復斎と号した。翌54年に,全権の一人として日米和親条約に調印。57年(安政4)末には,ハリスの要求をいれて幕府がアメリカと通商条約締結の方針を決めたことを奏聞するため,目付津田正路とともに上京した。江戸時代の対外関係の記録を分類整理した《通航一覧》は,復斎が中心になり編集した書である。
引用元:林復斎(はやし ふくさい)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9E%97%E5%BE%A9%E6%96%8E-1102301林述斎(はやしじゅつさい)
はやしじゅつさい
(1768―1841)
江戸後期の儒者。名は衡(たいら)、字(あざな)は徳詮。述斎、蕉隠(しょういん)、蕉軒(しょうけん)と号す。美濃(みの)国(岐阜県)岩村藩主松平乗蘊(まつだいらのりもり)(1716―1783)の三男。林家(りんけ)7世信敬(のぶたか)(1767―1793)に嗣がなかったので、1793年(寛政5)幕命により林家を継ぐ。大学頭(だいがくのかみ)に任ず。幕府による寛政(かんせい)異学の禁に応じて、昌平黌(しょうへいこう)の幕府の官学化、幕臣に対する学問吟味の制度の創設、正学たる朱子学の振興などに努めて、目覚ましい成果をあげる。林家中興の祖と称せられる。著書に『蕉軒(しょうけん)雑録』などがある。[玉懸博之]
引用元:林述斎(はやしじゅつさい)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9E%97%E8%BF%B0%E6%96%8E%28%E3%81%AF%E3%82%84%E3%81%97%E3%81%98%E3%82%85%E3%81%A4%E3%81%95%E3%81%84%29-1578301林鵞峰
はやしがほう
(1618―1680)江戸前期の儒者。名は春勝、恕(しのぶ)。字(あざな)は子和(しわ)、のちに之進(ししん)。薙髪(ちはつ)して春斎と称し、鵞峰、向陽子と号す。京都で生まれ育つ。羅山(らざん)の三男であったが、兄2人が早世したので家を継ぐ。父のほか那波活所(なわかっしょ)、松永貞徳(まつながていとく)に学ぶ。1633年(寛永10)江戸に下り、翌1634年将軍家光(いえみつ)にまみえ、1638年には評定(ひょうじょう)席に出仕して、公事(くじ)訴訟のことにあずかる。以後、幕府に仕えて、外交や文教政策の遂行にかかわり、忍ヶ岡(しのぶがおか)の学問所に拠(よ)りつつ儒教の研鑽(けんさん)・発展に努める。鵞峰は、博覧強記で広く漢籍に通じ、五経の私考を著すなど経学上の功績が大きい。また史学に秀で、幕命により父羅山の遺業を継いで日本の通史の編纂(へんさん)にあたり、1670年(寛文10)『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』310巻を完成し、ほかに『日本王代一覧』(1652成立)などの史書を著す。これらの史書は、儒教的歴史観にたちつつ、新たな日本の歴史像を定立したもので、文化史・思想史上の意義が大である。[玉懸博之]
引用元:林鵞峰(はやしがほう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9E%97%E9%B5%9E%E5%B3%B0-116416