ギベルティ「天国への門」ブルネレスキ「クーポラ」


イタリアのフィレンツェにある
サン・ジョヴァンニ洗礼堂の
東側の扉の装飾で有名な
ルネサンス期の彫刻家は?
ルテラロブ
ギドベィナ
ギベルティ(答)
16%


フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドーム部分を担当した、イタリアルネサンス期の建築家は?
ブルネレスキ(答)

ロレンツォ・ギベルティ(Lorenzo Ghiberti、1381年頃 – 1455年12月1日)は、初期ルネサンスの彫刻家、金細工師。鋳造技術においては並ぶ者のない腕前を示し、その技量は今日においても賞賛されている。フィレンツェ随一の芸術家であり、彼の工房はドナテッロやパオロ・ウッチェロ、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオら優れた芸術家を輩出した。

>ギベルティの完成した門扉がアンドレア・ピサーノの作品を凌駕していることを確信した大商人組合は、1425年1月2日に新たに壮麗な扉を作成するよう、ギベルティに依頼した。彼はレオナルド・ブルーニらの意見を取り入れつつ、1428年から扉の製作を始め、1452年6月に扉は完成した。この扉の壮麗さを目の当たりにした大商人組合は、この門扉の取り付け位置を、本来の北側から東側に変更し、かつてギベルティが造った扉を北側に移動させた。
引用元:ロレンツォ・ギベルティ – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A9%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3

ギベルティ
ぎべるてぃ
Lorenzo Ghiberti
(1378―1455)

イタリアの彫刻家。フィレンツェのサン・ジョバンニ洗礼堂の北側および東側のブロンズ門扉(もんぴ)の制作者として名高い。彼の主要な活動領域は彫刻であったが、そのほか建築、金属細工、著述にまで及び、初期ルネサンスにおけるもっとも著名な美術家の一人である。フィレンツェに生まれ、青年時代に一時生地を離れて、旅先で制作活動をしていたが、1401年に呼び戻され、洗礼堂北側門扉のコンテストに参加した。コンテストの課題は旧約聖書の物語「イサクの犠牲」であり、参加者は彼を含め7人であったといわれる。このときの応募作品のうち彼とブルネレスキによる2点のみがフィレンツェのバルジェッロ美術館に現存する。
引用元:ギベルティ(ギベルティ)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%82%AE%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3-51526

サン・ジョヴァンニ洗礼堂 (Battistero di San Giovanni) は、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂付属の洗礼堂。大聖堂の正面玄関に向き合って立っている八角形の建築物で、ロマネスク様式の最も重要な集中形式の教会建築のひとつである。アーヘンの宮廷礼拝堂を想起させるが、祭室と壁内通路以外には付室を持たない非常に単純な形式の八角堂である。

>この洗礼堂はロレンツォ・ギベルティによる東側の扉(1452年完成)が特に有名であり、後にミケランジェロが「天国への門」と呼んで賞賛したことから主にこの名で呼ばれる。現在設置されている扉はレプリカで、本物はドゥオーモ付属博物館に所蔵されている。
1401年、北側の扉の製作者公募が公告された。これはコンクール形式で製作者が選ばれた最初の例といわれており、7人の技師や芸術家が応募した。最後にロレンツォ・ギベルティとフィリッポ・ブルネレスキが選に残り、ギベルティが選ばれたとも、ギベルティとの共同制作をブルネレスキが辞退したとも伝えられている。このコンクールはルネサンス美術の幕開けのひとつとしてよく語られている。北側の扉は1403年11月23日に制作の契約が行われ、1424年4月19日に東側入口に設置されたが、「天国への門」の完成に伴い、1452年に北側に移設されて現在に至る。
引用元:サン・ジョヴァンニ洗礼堂 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%8B%E6%B4%97%E7%A4%BC%E5%A0%82

フィリッポ・ブルネッレスキ(Filippo Brunelleschi, 1377年 – 1446年4月15日 )は、イタリアの金細工師、彫刻家、そしてルネサンス最初の建築家である。本名はフィリッポ・ディ・セル・ブルネッレスコ(Filippo di ser Brunellesco=ブルネッレスコ氏のフィリッポ)、ないしはフィリッポ・ディ・セル・ブルネッレスコ・デ・ラーピである[1]が、専らその短縮形であるフィリッポ・ブルネッレスキの名で呼ばれる。主にフィレンツェで活動を行った。
彼は冗談や悪ふざけで他者をからかうことを楽しんだが[† 1]、発想は鋭く、聡明で機智に富んだ[4]。彫刻家としてはロレンツォ・ギベルティに遅れをとったが、サンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ建設によって絶大なる賞賛を得た。 遠近法の発明やオーダーの発見も、彼のものとされる。
引用元:フィリッポ・ブルネレスキ – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%AD

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレだいせいどう、イタリア語: Cattedrale di Santa Maria del Fiore)は、イタリアのフィレンツェにあるキリスト教・カトリックの教会である。フィレンツェの大司教座聖堂であり、ドゥオーモ(大聖堂)、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成される。教会の名は「花の(聖母)マリア」の意である。

>1355年から再開された工事は、フランチェスコ・タレンティ、アルベルト・アルノルディ、ジョヴァンニ・ダンブロージョ、ジョバンニ・ディ・ラポジーニ、ネーリ・ディ・フィオラヴァンテ、オルカーニャなどの手を経る。とくにタレンティは、1357年から1366年にかけて、東端部をアルノルフォの計画よりも拡張し、現在の形に変更した。 1380年には大聖堂の身廊が完成し、1418年にはクーポラ(ドーム部分)を残すのみとなった。

大聖堂の天蓋
14世紀末から、クーポラの架構は建設が危惧されていたが、1410年には中央上部にドラム(クーポラの基部)が築かれたため、その高さは55mに達し、工事をさらに困難なものにした。記録には、1417年までに様々な人物による図面や模型のやり取りが残されている。1418年8月19日、クーポラの模型公募の布告が行われ、ロレンツォ・ギベルティ、フィリッポ・ブルネレスキとドナテッロ、そしてナンニ・ディ・バンコの案の応募があった。(当時の建築技術で)ドームを築くには巨大な足場と仮枠が必要で非常な困難を伴うと考えられていたが、ブルネレスキは、独立した2重の構造を持つドームを仮枠なしで築く案を提出した。2重構造では重量が増し、危険ではないかと批判を受けたが、最終的にブルネレスキの案が採用された。1420年4月16日、ブルネレスキは工事責任者に任命されたが、彼の手腕を不安視する意見があったため、ギベルティとバッティスタ・ダントーニオも建設責任者として指名された。1420年8月7日、建設が開始され、1434年8月30日にはクーポラ頂頭部の円環が閉じられて一応の完成をみる。これにより、1436年3月25日には教皇エウゲニウス4世によって大聖堂の献堂式が行われた(この献堂式の際にギヨーム・デュファイ作曲のモテット「バラの花が咲く頃」が演奏された)。このクーポラは木の仮枠を組まずに作られた世界で最初のドームであり、建設当時世界最大であった。
ブルネレスキはクーポラを完成させたが、クーポラ頭頂部にのせるランターン(明り取りの先端部)については1436年12月31日に承認されたデザインのみで、建築方法を考えていなかった。そのため、新たにランターンを載せる方法についてのコンテストが行われた。これにはミケロッツォ設計が採用され、彼は大聖堂主任建築家に任命された。ブルネレスキが死去する数か月前の1446年3月13日に建設が始まり、1461年に完成する。
引用元:サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AC%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82