光格天皇「尊号一件」


江戸時代後期の1788年に
起きた事件「尊号一件」で
父に太上天皇の尊号を送(贈)ろうと
して幕府ともめた天皇は誰?
仁孝天皇
霊元天皇
光格天皇(答)
後水尾天皇
34%

尊号一件(そんごういっけん)とは、日本の江戸時代後期に起きた京都の朝廷と江戸の幕府との間に発生した、閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する紛議事件である。尊号事件ともいう。

第119代光格天皇は典仁親王の子であったが、後桃園天皇が崩御したときに皇子がいなかったためにその養子となって即位したことにより、父よりも位が上になってしまった。しかも禁中並公家諸法度における親王の序列が摂関家よりも下であり、天皇の父が臣下である摂関家を目上としなければならないことに対しても天皇は不満を抱いた。だが、禁中並公家諸法度は江戸幕府にとっては初代徳川家康が定めた祖法であり、その改正は幕府そのものの尊厳を傷つけるものとして拒絶してくることは目に見えて明らかであった。そこで光格天皇は実父典仁親王に対して太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうとした。

収束[編集]
この事態を憂慮したのは前関白で典仁親王の実弟(天皇からみて叔父)でもある鷹司輔平であった。輔平はこのままでは朝廷と幕府の全面対決を招いて兄・典仁親王の身にも危険が及ぶと考え、定信に事の次第を告げて尊号を断念する代わりに典仁親王の待遇改善を求めた。定信は大政委任論を根拠に天皇に代わって幕府が公家を処分できると主張して中山愛親・正親町公明らの公家に処分を下し、また九州で活動していた勤皇家の高山彦九郎を処罰した。勤皇派の水戸徳川家が定信に賛成すると、輔平と後桜町上皇の説得を受けて天皇も渋々尊号一件から手を引いた。定信も典仁親王に1,000石の加増をする等の待遇改善策を行うことで尊号の代償とした。
引用元:尊号一件 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E5%8F%B7%E4%B8%80%E4%BB%B6

寛政1 (1789) 年光格天皇が父典仁親王に太上 (だいじょう) 天皇の尊号を贈りたい旨江戸幕府に希望した際,老中松平定信が皇統を継がない者で尊号を受けるのは皇位を私するものとして拒否した一連の事件。朝廷では,一時このことを見合せたが,再び参議以上の公卿 35名の意見を求めたところ大部分が賛成であったため幕府にその旨を伝えた。ところが定信は強硬な態度に出て,武家伝奏正親町 (おおぎまち) 公明,議奏中山愛親を処罰し,武家伝奏万里小路 (までのこうじ) 政房の役を免じた。光格天皇は痛憤したが,ついにあきらめ幕府の力に屈服した。この事件は朝幕関係に重大なしこりを残した。
引用元:尊号一件(そんごういっけん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8A%E5%8F%B7%E4%B8%80%E4%BB%B6-90592