伊藤博文、蜂須賀茂韶、近衛篤麿、徳川家達、近衛文麿、徳川圀順、徳川家正



次の政治家を、貴族院の議長に
就任した順に選びなさい
伊藤博文
蜂須賀茂韶(もちあき)
近衛篤麿
徳川家達(いえさと)
近衛文麿
徳川圀順(くにゆき)
徳川家正
24%

貴族院議長(きぞくいんぎちょう)は、大日本帝国憲法に基づき設置されていた日本の帝国議会の両院制を構成する貴族院(上院)の議長である。

帝国議会における貴族院の議長及び副議長は、議院の意思によらず、内閣の輔弼により天皇から勅任されることとなっていた。任期は7年。任期の定めのある議員の場合は議員としての任期の期間、その職に就くこととなっていた。仮議長は、議長・副議長ともに故障あるときに議院において選挙された。

引用元:貴族院議長 (日本) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E6%97%8F%E9%99%A2%E8%AD%B0%E9%95%B7_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

伊藤 博文(いとう ひろぶみ/ひろふみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) – 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。諱は博文(ひろぶみ、「ハクブン」と有職読みすることもある)。幼名は利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。号は春畝(しゅんぽ)で、春畝公と表記されることも多い。また小田原の別邸・滄浪閣を所持していたことから滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)を称して落款としても用いた。
周防国出身。長州藩の私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争の勝利に伴う日清講和条約の起草・調印により清國から朝鮮を独立させた(第一条)ことが特記できる。元老。
1909年、ハルビンで朝鮮民族主義活動家の韓国人安重根に暗殺された。
引用元:伊藤博文 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87

蜂須賀 茂韶(はちすか もちあき)は、江戸時代末期の大名。阿波国徳島藩の第14代(最後)の藩主。文部大臣、東京府知事、貴族院議長を歴任した。
引用元:蜂須賀茂韶 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E8%8C%82%E9%9F%B6

近衞 篤麿(このえ あつまろ、1863年8月10日(文久3年6月26日) – 1904年(明治37年)1月1日)は、明治時代後期の華族・政治家。号は霞山。近衛家は五摂家筆頭の家柄で、公爵。第3代貴族院議長、第7代学習院院長、帝国教育会初代会長。本姓は藤原。
引用元:近衛篤麿 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%AF%A4%E9%BA%BF

德川 家達(徳川 家達、とくがわ いえさと、1863年8月24日 – 1940年6月5日)は、徳川宗家の16代当主。もとは田安徳川家の7代当主で、静岡藩の初代藩主。幼名は亀之助といった。号は静岳。位階、勲等、爵位は従一位大勲位公爵。世間からは「十六代様」と呼ばれた。第4代から第8代までの貴族院議長、ワシントン軍縮会議全権大使、1940年東京オリンピックの組織委員会の委員長、第6代日本赤十字社社長、華族会館館長、学習院評議会議長、日米協会会長などを歴任した。大正期には組閣の大命も受けた(拝辞)。
引用元:徳川家達 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E9%81%94

近衞 文麿(このえ ふみまろ、1891年(明治24年)10月12日 – 1945年(昭和20年)12月16日)は、日本の政治家。栄典は勲一等公爵。
貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、内閣総理大臣(第34・38・39代)、外務大臣(第57代)、拓務大臣(第13代)、班列、農林大臣(臨時代理)、司法大臣(第43代)、国務大臣、大政翼賛会総裁(初代)などを歴任した。
引用元:近衛文麿 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF

徳川 圀順(とくがわ くにゆき、1886年(明治19年)12月13日 – 1969年(昭和44年)11月17日)は、日本の華族、政治家、陸軍軍人。水戸徳川家第13代当主。貴族院議長、日本赤十字社社長を務める。階級は陸軍歩兵少尉、爵位は侯爵、のち公爵。徳川光圀以来編纂を続けていた歴史書『大日本史』を完成させる。字は子行、号は涛山、諡号は明公。
引用元:徳川圀順 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%9C%80%E9%A0%86

德川 家正(とくがわ いえまさ、1884年(明治17年)3月23日 – 1963年(昭和38年)2月18日)は、日本の外交官・政治家。徳川宗家第17代当主。第16代当主徳川家達の長男。新字体で徳川 家正とも表記される。

>官職はトルコ大使など。第13代貴族院議長に就任し、戦後、貴族院の廃止、参議院への移行に伴い最後の貴族院議長となる。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は公爵。学歴は東京帝国大学法科大学政治科卒業。称号(学位)は法学士(東京帝国大学)。その他の主な公職及び役職としては、社団法人全国治水砂防協会会長、日土協会会長などを歴任。
引用元:徳川家正 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%AD%A3