「那須信吾」吉田東洋暗殺、天誅組の乱


幕末期の土佐藩士
土佐勤王党に参加
天誅組の乱で戦死
吉田東洋暗殺の実行犯
土方久元
那須信吾(答)
吉村虎太郎
福岡孝弟 ふくおかたかちか
33%


幕末期の土佐藩士
土佐勤王党に参加
寺田屋事件で投獄
天誅組の変の首謀者
吉村虎太郎(答)

連想
幕末期の土佐藩士
土佐勤王党に参加
三条実美に仕える
第1次伊藤内閣の農商務大臣
土方久元(答)

連想
幕末の土佐藩家老
改革派「新おこぜ組」の一員
薩土盟約を締結
五箇条の御誓文草案作成に関与
福岡孝悌(答)

那須 信吾(なす しんご、文政12年11月11日(1829年12月6日)- 文久3年9月24日(1863年11月5日))は、幕末期の土佐藩の郷士。名は虎吉。真吾。重民。別名に石原武之進。
土佐藩の家老を務める浜田光章の三男として生まれる。幼くして父を失ったため、郷士・那須俊平の娘婿となる。田中光顕の叔父にあたる。坂本龍馬に深く傾倒し、文久元年(1861年)に土佐勤王党に加わった。文久2年(1862年)には安岡嘉助や大石団蔵らと共に尊王を無視して藩政改革、佐幕を唱える吉田東洋を暗殺した上で脱藩し、長州藩に逃亡する。
文久3年(1863年)、天誅組の変に参加し、軍監を務めるが、鷲家村にて狙撃されて戦死した。享年35。
武勇に優れた怪力の持ち主で、走ることにおいては馬より速いとまで噂されたという。身長は六尺(約180cm)近くあり、「天狗様」と称されたという。
引用元:那須信吾 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E4%BF%A1%E5%90%BE

那須信吾 なす-しんご

1829-1863 幕末の武士。
文政12年11月11日生まれ。那須俊平の養子。土佐高知藩の郷士。武市瑞山(ずいざん)の土佐勤王党にはいる。文久2年同志の安岡嘉助,大石団蔵とともに参政の吉田東洋を暗殺,脱藩する。3年天誅(てんちゅう)組の挙兵に軍監として参加,同年9月24日大和(奈良県)鷲家口(わしかぐち)で戦死した。35歳。本姓は浜田。名は重民。変名は石原武(幾)之進。
引用元:那須信吾(なす しんご)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%82%A3%E9%A0%88%E4%BF%A1%E5%90%BE-1098123

吉村 虎太郎(よしむら とらたろう、天保8年4月18日(1837年5月22日) – 文久3年9月27日(1863年11月8日))は、幕末の土佐藩出身の志士。諱は重郷。一般には「寅太郎」と記されることが多い。
土佐藩の庄屋であったが尊攘思想に傾倒して土佐勤王党に加盟。平野国臣らが画策する浪士蜂起計画(伏見義挙)に参加すべく脱藩するが、寺田屋事件で捕縛されて土佐に送還され投獄される。釈放後、再び京都へ上り孝明天皇の大和行幸の先駆けとなるべく中山忠光を擁立して天誅組を組織して大和国で挙兵するが、八月十八日の政変で情勢が一変して幕府軍の攻撃を受け敗れて戦死した。(天誅組の変)
引用元:吉村虎太郎 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E6%9D%91%E8%99%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E

土方久元
ひじかたひさもと

[生]天保4(1833).10.6. 土佐
[没]1918.11.4. 東京
明治期の政治家。伯爵。土佐藩士土方久用の子で通称楠左衛門。号は泰山。文久1 (1861) 年武市瑞山の誓書盟約に加わって尊皇攘夷運動を行ない,同3年8月 18日の政変以後,七卿に随行して西下し,三条実美の信を得た。さらに倒幕運動にも参加し,中岡慎太郎とともに薩長連合実現へ大きく貢献した。明治維新以後,江戸府判事,東京府判事を経て,明治4 (1871) 年には太政官になり,1877年には一等侍補,さらに内務大輔,内閣書記官長,元老院議官,宮中顧問官,農商務大臣,宮内大臣,枢密顧問官を歴任。その後,帝室制度取調局総裁,臨時帝室編修局総裁として修史事業に尽力,また國學院大學学長,東京女学館館長をも兼ねた。
引用元:土方久元(ひじかた ひさもと)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%9C%9F%E6%96%B9%E4%B9%85%E5%85%83-14887

福岡孝弟
ふくおかたかちか
(1835―1919)

幕末・明治時代の官僚、政治家。天保(てんぽう)6年2月土佐藩家老福岡家の支族に生まれた。藤次と称す。1863年(文久3)藩主側役(そばやく)となり、幕末政局に土佐藩を代表して活躍、1867年(慶応3)参政に進み、10月同藩士後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らと将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に大政奉還を勧告した。王政復古直後の12月12日参与に任じられ議事制度の確立に尽力、五か条の誓文や政体書の起草にあたった。維新の功により賞典禄(しょうてんろく)400石を永世下賜。1872年(明治5)文部大輔(たいふ)ついで司法大輔、以後断続的に左院、元老院の議官を務め、1881年参議兼文部卿(きょう)、1884年子爵、1888年枢密顧問官。大正8年3月6日没。[毛利敏彦]
引用元:福岡孝弟(ふくおか たかちか)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E5%AD%9D%E5%BC%9F-15111