「呉三桂」三藩の乱


1673年に清に反旗を翻して
三藩の乱を引き起こし、
周という国を建国した
軍人は?
張自呉王
成李三桂
呉三桂(答)
37%


次の中国紙史の人物と
その人物が建国した国の
正しい組み合わせを選びなさい
黄巣───斉
李自成───順
呉三桂───周
王莽───新

呉 三桂(ご さんけい、拼音: Wú Sānguì ウ サンクィ)は、明末清初の軍人、周の初代皇帝。遼東で清軍に対峙していたが李自成の北京占領に際して清に味方し、清の中国平定に尽力した。平西王として勢力を揮うが後に清に背き、三藩の乱を引き起こした。子に呉応熊ら、孫に呉世璠。
引用元:呉三桂 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E4%B8%89%E6%A1%82

李自成/李自成の乱
明末の李自成が起こした農民反乱。北京を占領し、明王朝を滅ぼしたが、清に鎮圧された。

 李自成は明の末期に起こった農民反乱軍の指導者。1631年、農民反乱が起きると、反乱軍に加わり、各地を転戦した。1644年には西安に入り、国号を大順として王を称した。さらに北京に進軍すると、明は清に対する防衛のため軍隊を山海関に置いていたために守りきることができず、最後の皇帝毅宗(崇禎帝)は自殺、滅亡した。しかし李自成の軍は統制がとれず、各地の地主層も離反したため政権を維持できなかった。山海関を守っていた明の部将呉三桂は清に降り、その先導となって北京の李自成軍を攻撃、李自成は陝西の地に逃れ乱は終結した。この反乱によって明は滅亡し、清の中国支配のきっかけとなった。 → 明の滅亡
引用元:李自成の乱 http://www.y-history.net/appendix/wh0801-137.html

呉三桂
ごさんけい
Wu San-gui; Wu San-kui

[生]万暦40(1612).遼東?
[没]康煕17(1678).8. 衡州
中国,明末清初の武将。字は月所,長白。明朝の錦州総兵官呉襄の子で,崇禎時代に遼東総兵となり,清朝の南下阻止の任にあった。李自成の軍が北京に迫ると,明は呉襄を提督京営に任じ三桂を平西伯に封じ,山海関に駐留させて北京防衛にあたらせた。李自成軍が北京を陥れると,三桂は敵であった清軍のドルゴン (多爾袞) にくだり,清軍の先導となって北京から李自成を追討した。清朝の中国本土進出は三桂の力によるところが大きいという。投降以後,順治2 (1655) 年には平西王に封じられ,錦州,漢中に軍を駐留して陝西,四川で孫可望,李定国らの討伐に従い,同 14年には平西大将軍に任じられて雲南の平定を行い,同 16年に雲南に駐留し,桂王をビルマに追討するなど中国全土の平定に活躍した。康煕1 (62) 年には平西親王に封じられるなど清朝に優遇されたが,雲南,貴州でその勢力は強大な軍事力を背景に,軍事民政のすべてが三桂の手に帰し,平西藩,呉藩と称される独立王国的存在となった。同様の存在であった広東の平南王尚可喜,福建の靖南王耿継茂とともに「三藩」と称された。三藩の強大な勢力は清朝の脅威となり,同 12年の尚可喜の引退を機会に三桂をも雲南から引退させようとした。清の意図を知った三桂は反乱を起し,三藩の乱が始った。三桂は天下都招討兵馬大元帥周王を称し,雲南,貴州,四川,広西を支配下に入れたが,やがて清軍の反撃にあい,同 17年に衡陽で帝位につき,昭武と建元したものの病死した。三桂の跡は孫の呉世ぱんが襲ったが,同 20年に清軍によって滅ぼされた。
引用元:呉三桂(ごさんけい)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%91%89%E4%B8%89%E6%A1%82-64629