「安藤守就(もりなり)」武田氏と内通 稲葉一鉄に敗れ自害


「美濃三人衆」の一人
武田勝頼と内通した罪で追放
竹中半兵衛と稲葉山城を占拠
稲葉一鉄との戦いで自害
堀尾吉晴
稲葉一鉄
安藤守就(答)
佐々成政
71%


「美濃三人衆」の一人
僧侶から通俗して家督を継ぐ
姉川の戦い、小牧の戦いに参加
1588年美濃清水城で死去
稲葉一鉄(答)

連想
「美濃三人衆」の一人
次男の行広は大阪の陣で活躍
出家前の名前は直元
1571年伊勢長島攻めで戦死
氏家卜全(答)

一問多答
次のうち、戦国時代に活躍した「美濃三人衆」の一人に数えられる武将を全て選びなさい
稲葉一鉄(答)
氏家卜全(答)
安藤守就(答)

一問多答
次のうち、下克上の典型とされ「戦国三梟雄きょゆう」の1人にも数えられる武将を全て選びなさい
北条早雲(答)
松永久秀(答)
斎藤道三(答)

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
安藤守就 あんどう-もりなり

?-1582 戦国-織豊時代の武将。
美濃(みの)(岐阜県)河渡(ごうど)城主。斎藤氏の重臣となり,氏家直元,稲葉一鉄とともに美濃三人衆といわれる。のち織田信長に属するが,子の尚就(ひさなり)が武田信玄に通じた廉(かど)で,天正(てんしょう)8年追放される。信長の横死に乗じ河渡城を奪回しようとするが,一鉄に攻められ,10年6月8日敗死。姓ははじめ伊賀。名は別に範俊(のりとし),定治。
引用元:安藤守就(あんどう もりなり)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E8%97%A4%E5%AE%88%E5%B0%B1-1051830

安藤 守就(あんどう もりなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃北方城主。姓は安東とも表記される。

>天正8年(1580年)8月、突如、信長に野心ありとの嫌疑をかけられ、林秀貞、丹羽氏勝と共に粛正の対象となり追放される。この要因は美濃・尾張を拠点とする信長にとって、かつての仇敵であり、美濃に勢力を張ってきた守就の存在が穏やかでなかったからであるとも推測される[1]。信長公記には林、丹羽を含めた三名の追放の理由として「先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり(先年、信長公が苦闘を重ねていた折、それに乗じて野心を含んだためであった)」とのみある。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、信長が明智光秀により討たれると、守就は子の安藤尚就と共に挙兵して北方城を奪い、再起を試みた。しかし当時の北方城の領主・稲葉一鉄(良通)に攻められ敗北。6月8日に一族共に自害し美濃安藤氏は滅亡する。享年は80とされる(『稲葉家譜』)が、正確な生年は不明。
引用元:安藤守就 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E5%AE%88%E5%B0%B1

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
稲葉一鉄
いなばいってつ
(1516―1589)

戦国・安土(あづち)桃山時代の武将。美濃(みの)三人衆の一人。幼名彦六。名を通以(みちもち)、通朝(みちとも)、貞通(さだみち)、長通(ながみち)、良通(よしみち)と改めた。右京亮(うきょうのすけ)、伊予守(いよのかみ)を称し、入道して一鉄。1525年(大永5)近江(おうみ)浅井氏の進攻を迎撃し、父と5人の兄が戦死したあと、還俗(げんぞく)して家を継ぐ。土岐(とき)氏に続き斎藤道三(どうさん)に仕えたが、その子龍興(たつおき)と対立。織田信長の美濃攻略にあたり、三人衆の氏家卜全(うじいえぼくぜん)、安藤守就(もりなり)と謀り、内通した。のち信長に仕え、美濃国(岐阜県)曽禰(そね)(曽根、大垣市内)を居城とし、姉川(あねがわ)の戦い以下に功をたてた。本能寺の変後、急ぎ帰国し、社寺に制札を出したため、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉に疑われたという。また茶室で虚堂(きどう)の墨跡に託し無実を述べ信長の疑いを解いたという逸話もある。清水(きよみず)城で没。美濃大野郡長良(ながら)(揖斐(いび)郡揖斐川町)の月桂院に葬られる。[奥野高広]
引用元:稲葉一鉄(いなば いってつ)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%A8%B2%E8%91%89%E4%B8%80%E9%89%84-15441

生年:1512年?
没年:1571年

美濃国諸旧記には59歳で死去したと書かれているが、諸説あるようだ。

西美濃三人衆の一人(不破光治を入れて四人衆になる媒体もある)。はじめは美濃の守護大名だった土岐頼芸の家臣として仕えるが、重臣であった斎藤道三との不和が加速し最終的に頼芸が尾張に追放された。この後卜全は道三の家臣として仕える。

道三死後も孫の龍興まで仕えたが、永禄10年(1567年)には稲葉山城の戦いで織田軍に内応、以後は織田氏の家臣として仕えた。また、この頃に出家し卜全と号するようになる。

永禄12年(1569年)、北畠具教が籠城する大河内城の戦いに参加、以降も姉川の戦いなどに参加して活躍。元亀2年(1571年)の長島一向一揆(第二次伊勢国長島攻め)で柴田勝家に従軍する。しかしこの戦は敗戦となり、織田軍が撤退する際には殿を務めた。

5月12日に美濃石津で一揆勢に討ち取られた。最期は泥沼にはまり落馬して討たれたと言われる。
引用元:氏家卜全とは (ウジイエボクゼンとは) [単語記事] – ニコニコ大百科 http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%B0%8F%E5%AE%B6%E5%8D%9C%E5%85%A8