ペルシャ戦争「マラトンの戦い」「テルモピレーの戦い」「サラミスの海戦」「プラタイアイの戦い」


プラタイアイの戦い
テルモピレーの戦い
マラトンの戦い
サラミスの海戦
ペロポネソス戦争
ポエニ戦争
クリミア戦争
ペルシャ戦争(答)
51%


紀元前5世紀
ギリシャの半島
ニキアスの平和
アテネ対スパルタ
ペロポネソス戦争(答)

連想
紀元前264年~前146年
大スキピオの「ザマの決戦」
ハンニバルの「カンネーの戦い」
カルタゴとローマの戦い
ポエニ戦争(答)



次の歴史上の戦いを
早く起こった順に選びなさい
ペルシャ戦争
百年戦争
三十年戦争

順番当て
ペルシャ戦争の次の戦いを早く起こった順に選びなさい
マラトンの戦い
テルモピレーの戦い
サラミスの戦い
プラタイアイの戦い

070qVCRrRz
反マケドニア運動を展開した
古代ギリシャ、アテナイの抗弁家
で、紀元前322年にラミア戦争で
アテナイが敗れて自殺したのは?
テミストクレス
デモステネス(答)
ペイシストラトス
ペリクレス
引用元:「デモステネス」古代アテナイの雄弁家 反マケドニアを演説 http://seethefun.net/%E6%96%87%E7%B3%BB%E5%AD%A6%E5%95%8F/19599/

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
ペルシア戦争
ぺるしあせんそう

紀元前5世紀前半にペルシア帝国とアテネ、スパルタを中心とするギリシア諸都市との間で行われた戦争。[伊藤貞夫]
イオニア反乱目次を見る
戦いの発端は、小アジア西岸イオニア地方のギリシア諸市がペルシアの支配に対して蜂起(ほうき)した、いわゆる「イオニア反乱」にある。

ダリウス1世の遠征(ペルシア戦争第1回遠征)目次を見る
反乱鎮圧後、ペルシアの目は、それぞれ20隻、5隻の艦船をイオニアに送ったギリシア本土のアテネ、エウボイア島のエレトリアの両市に注がれた。前492年に海路トラキア遠征を行ったのち、前490年、報復のためダリウス1世は大軍をギリシアに派遣した。ペルシア軍はエレトリアを制したのち、アテネを襲って北東岸のマラトン平野に上陸したが、約1万のアテネ軍はミルティアデスの作戦に従ってこれを破り、ペルシアのアテネ占領を阻んだ(マラトンの戦い)。[伊藤貞夫]

クセルクセス1世の遠征(ペルシア戦争第2回遠征)目次を見る
遠征に失敗したペルシアは、その後ダリウスの子クセルクセス1世の下で軍備を整え、前480年、第一次遠征軍をはるかに上回る大軍を王自らが率いて、ふたたびギリシア本土を目ざした。ギリシア側は、一部の都市を除き、スパルタとアテネを中心に結束を固め、エウボイア島の北端アルテミシオン岬と中部ギリシア北端のテルモピレー峠とを結ぶ線を海陸の防衛線と定めたが、二つの拠点はともに激戦のすえに破られ(アルテミシオンの海戦、テルモピレーの戦い)、ペルシア陸上軍はアテネに侵入する。この危機に際し、アテネの知将テミストクレスは、アテネ西方サラミス島東側の海峡にペルシア海軍を引き寄せて決戦を挑む策を連合軍の軍議で主張して、それを通し、陸上の玉座から観戦するクセルクセスの目の前でその大艦隊を壊滅させ、ペルシアのギリシア制圧の野望をくじいた(サラミスの海戦)。ペルシア陸上軍の一部は将軍マルドニオス指揮の下にギリシア北部にとどまったが、これも前479年、中部ギリシアのプラタイアイでギリシア連合軍に敗れ、撤退を余儀なくされた(プラタイアイの戦い)。同じころイオニアのミカレ岬でも、上陸したギリシア軍が大勝して、イオニア独立への道を開いた(ミカレ岬の戦い)。こののちペルシア軍とギリシア連合軍との戦いは、主戦場を東方に移して続行される。[伊藤貞夫]

結まで目次を見る
前478年ギリシア軍はキプロス島の諸都市の反乱を助け、ビザンティオンを攻めて、いずれもペルシア支配からの解放に成功する。前477/8年デロス同盟成立後もギリシア側の攻勢は変わらず、前467年アテネの将軍キモンの指揮の下に、小アジア南岸エウリメドン河口でペルシア軍を破り、前459年にはエジプトでの反乱を助けるべく兵を送っている。しかしエジプト遠征軍は前454年に大敗を喫し、キプロスでもペルシア側の反攻にあって、前450年これを放棄するのやむなきに至った。この戦いでキモンが死亡したことは、アテネに和平の機運を生じさせ、前449/前450年ギリシアとペルシアとの間に正式に和議が結ばれて(カリアスの和約)、ここに半世紀にわたるペルシア戦争は終結した。イオニア諸市は独立を認められ、ペロポネソス戦争末期に至るまでペルシアの支配から逃れえた。[伊藤貞夫]

引用元:マラトンの戦い(マラトンのたたかい)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-137305#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29

ペロポネソス戦争
ぺろぽねそすせんそう

紀元前431~前404年、ギリシアのアテネ陣営とスパルタ陣営との間に戦われた戦争。
 前5世紀初めのペルシア戦争の過程で前478/477年に成立した第一次アテネ海上同盟(いわゆるデロス同盟)は、前6世紀後半以降スパルタを盟主として成立していたペロポネソスPeloponnesos同盟に対抗するアテネの「力の政策」の所産であった。このような二大陣営の出現は、従来のギリシア国際政治の環境に重大な変化をもたらし、陣営外にある弱小国の局地的問題を国際紛争にまで増幅させる要因を当初からはらんでいた。

>前422年アンフィポリスの戦いでクレオン、ブラシダスがともに戦死して、翌年「ニキアスの平和」とよばれる休戦条約が両陣営間に結ばれた。
引用元:ペロポネソス戦争(ペロポネソスせんそう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%83%9A%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%8D%E3%82%BD%E3%82%B9%E6%88%A6%E4%BA%89-131025

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
ポエニ戦争
ぽえにせんそう

古代ローマが西地中海世界の強国であったカルタゴをしだいに撃破し、ついに滅ぼした3回に及ぶ戦争。ポエニPoeniとはフェニキア人を意味し、カルタゴがフェニキア人の植民都市国家として興ったことによるもの。[秀村欣二]
引用元:ポエニ戦争(ポエニせんそう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%83%9D%E3%82%A8%E3%83%8B%E6%88%A6%E4%BA%89-132565