『漢書』地理志「夫れ楽浪海中に倭人有り」『後漢書』東夷伝「光武賜うに印綬を以てす」『魏志』倭人伝「倭人は帯方の東南大海の中に在り」『宋書』倭国伝「興死して弟武立ち」


「夫れ楽浪海中に倭人有り」
中国の歴史所
初めて日本が登場する中国の書
著書は班固
『魏志』倭人伝
『後漢書』東夷伝
『宋書』倭国伝
『漢書』地理志(答)
36%


中国の歴史書
「光武賜うに印綬を以てす」
編者は范曄
「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀す」
「後漢書」東夷伝(答)

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中国・漢代に書かれた歴史書で
『史記』を書いた歴史家は
司馬遷ですが

『漢書』を書いたのは○○?
○の漢字をひらがなで答えなさい
はんこ
班固(答)
引用元:『日本外史』頼山陽の歴史書「源氏から徳川氏まで」『史記』司馬遷・紀伝体『漢書』班固 『資治通鑑』北宋・司馬光による歴史書「為政者の鑑」 『本朝通鑑』林羅山・鵞峰父子が編纂 http://seethefun.net/%E6%96%87%E7%B3%BB%E5%AD%A6%E5%95%8F/1564/

[ポイント]
1.日本古代史に関する中国・朝鮮重要史料は時代順に、漢書地理志→後漢書東夷伝→魏志倭人伝→好太王碑文→宋書倭国伝の5つである。

[解説]
1.漢書地理志:「夫(そ)れ楽浪(らくろう)海中(かいちゅう)に倭人(わじん)有(あ)り、分れて百余国と為(な)る。歳事(さいじ)を以(も)って来(きた)り献見(けんけん)(定期的に朝貢)すと云(い)ふ」

2.後漢書東夷伝:
 (1) 57年に奴国(なこく)王が後漢の光武帝から印綬(金印と組紐(くみひも)のセット)を授かる。
 (2) 107年に倭の国王帥升(すいしょう)が生口160人を献上した。
 (3) 桓霊の間(=2世紀後半)、倭国大乱が起こった。

>4.魏志倭人伝
 (1) 「倭人は帯方(たいほう)の東南大海の中に在(あ)り、……旧(もと)百余国、漢の時朝見する者有り今使役通ずる所三十国。郡より倭に至るには……邪馬台国(やまたいこく)に至る。
 (2) 「大人(たいじん)-下戸(げこ)-奴婢」という身分差があり、「一大率(いちだいそつ)」という役所が伊都国など諸国の検察にあたり、「大倭(だいわ)」が国々の市を取り締まった。
 (3) (景初二年は三年の誤りで)239年に邪馬台国女王卑弥呼が魏に大夫(たいふ)・難升米(なしめ)らを遣使し、『親魏倭王』の称号と銅鏡を受ける。
 (4) 卑弥呼の死後、男王では治まらず、卑弥呼の宗女壱与(いよ)年十三なるを立てる。壱与は266年に西晋へ遣使。」

>7.宋書倭国伝:478年の倭王武をはじめ倭の五王が南朝に朝貢していた。
引用元:古代日本史料の覚え方◇S古代14 – 東海林直人のゴロテマ日本史 http://blog.goo.ne.jp/thropus2/e/1e3dcf307f1a1e4124c6e7115a6a26ae



Wo; Woe

委とも書く。中国,朝鮮で日本のことを呼んだ古称。文献上では漢代の『山海経』の海内北経に「倭は燕に属す」とあるのが初見。確実なものとしては1世紀後半頃班固が撰した『漢書』地理志に「楽浪の海中に倭人あり,分れて百余国をなす…」とある記事である。
引用元:倭(わ)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%80%AD-153709

ごかんじょとういでん【後漢書東夷伝】

「後漢書」の列伝の一。西暦57年に倭奴国王が光武帝から金印を授かったという記事がみえる。
引用元:後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E6%9B%B8%E6%9D%B1%E5%A4%B7%E4%BC%9D-264252

魏志倭人伝
ぎしわじんでん

中国の史書『三国志』の「魏書東夷伝(とういでん)」の倭人の条の俗称で、撰者(せんじゃ)は晋(しん)の陳寿(ちんじゅ)。3世紀の後半に成立。本書に書かれている倭の記事は、2~3世紀の時代に相当し、本書の成立の時代と接近しており、かなりの史実がみられると考えられるので、当時の日本および日本人の生活ぶりを知るのに重要な史料として位置づけられている。
 本書には、朝鮮の帯方(たいほう)郡より倭の諸国に至る道程、地理的景観、風俗、物産、政治、社会などのようすが比較的詳細に書き留められている。またよく知られている邪馬台国(やまたいこく)やその国の女王卑弥呼(ひみこ)のことが、つぶさに記述されており、卑弥呼が「共立」されて王となったなど、当時の王のあり方を知るのに、またとない情報を提供してくれている。さらに邪馬台国の帯方郡や魏との交渉の次第や、狗奴(くな)国との戦いのようすも記されており、魏の皇帝の詔書に金印紫綬(しじゅ)を仮授させたこと、銅鏡100枚などを賜ったことなどに触れてあるのは、史料的にも見すごせない箇所となっている。末尾には、卑弥呼の死と、その後の倭国の混乱、そして卑弥呼の宗女壹与(いよ)の即位、さらに魏との通交のことが述べられている。[佐伯有清]
『和田清・石原道博編・訳『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』(岩波文庫)』
引用元:魏志倭人伝(ぎしわじんでん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D-50540

そうじょわこくでん【宋書倭国伝】

中国の《宋書》夷蛮伝の東夷の条に属している倭国伝をいう。この夷蛮伝は他の中国史書の外国伝と異なり,風土,産物,制度,歴史といった各国の固有のものに関する記述はほとんどなく,宋朝と諸国の交渉記事に限定されている。倭国伝もこの特色をもち,ほぼ宋朝と倭国との交渉(いわゆる〈倭の五王〉の朝貢,それをふまえた宋朝による任官)記事で占められている。ここに記された武の上表文は著名である。宋(南朝)【坂元 義種】
引用元:宋書倭国伝(そうじょわこくでん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AE%8B%E6%9B%B8%E5%80%AD%E5%9B%BD%E4%BC%9D-1180822

『漢書』(かんじょ)は、中国後漢の章帝の時に班固、班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。後漢書との対比から前漢書ともいう。
『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。
『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。史記と重なる時期の記述が多いので、比較される事が多い。特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、史記に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは史記に勝る。また思想的に、儒教的な観点により統一されている。
引用元:漢書 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E6%9B%B8

『漢書』[編集]

漢書/卷028下
本文[編集]
『漢書』(前漢書ともいう)の地理志に、
「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。
書や記事について[編集]
楽浪郡は、前漢(紀元前202年-8年)の武帝が紀元前108年に衛氏朝鮮の故地に設置した漢四郡の一つである。その役所は、今日の北朝鮮の平壌付近にあった。漢四郡とは、真番郡・玄菟郡・楽浪郡・臨屯郡をいう。中国の史書で倭人の国のことをはじめて書いたのがこの『漢書』地理志である。楽浪の海を越えた所に百余国に分かれた倭人の国があった。中国人の目には、「国」として映っていた。弥生中期の後半(紀元前1世紀頃)に当たっている。
撰者について[編集]
班固が後漢の初め頃に編纂した。

『後漢書』[編集]

本文[編集]
『後漢書』「東夷傳」
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う
倭奴国の王は、出先機関の楽浪郡にではなく、後漢の都の洛陽にまで使者をはるばる派遣し、朝貢していた。 授けられた金印(倭奴国王印)は、江戸時代に博多湾・志賀島で掘り出されたものとされ、現存する。「漢委奴國王」と刻印されている。三宅米吉はこれを漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王と読んでいる。また、委奴を「いと・ゐど」(伊都国)と読み、漢の委奴(いと・ゐど)の国王と読む説もある。

『魏志』倭人伝[編集]

本文[編集]
「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」(『三国志』魏書巻三〇「烏丸鮮卑東夷伝 倭人の条」)
この記事は、倭人伝の導入部である。その意味は、
倭人は帯方郡[6]の東南の大海の中におり、山の多い島のうえに国や邑(むら)をつくっている。もとは百あまりの国があり、その中には漢の時代に朝見に来たものもあった。いまは使者や通訳が往来するのは三十国
である。

『宋書』[編集]

本文[編集]
「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」(『宋書』倭国伝)
昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。
「詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」
詔を以て武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙爵した。と日本が宋へ朝貢をし、宋が倭王(武)へ朝鮮半島の支配を認めたとしており、当時の外交状況が見て取れる。
引用元:倭・倭人関連の中国文献 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB%E5%80%AD%E4%BA%BA%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%8C%AE