義堂周信『空華集』 絶海中津『蕉堅藁』 五山学芸の双璧

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臨済宗の僧
土佐の人
建仁寺や南禅寺に住む
詩文集『空華集』(くうげしゅう)
夢窓疎石 むそうそせき
絶海中津 ぜっかいちゅうしん
義堂周信(答)ぎどうしゅうしん
桂庵玄樹 けいあんげんじゅ


臨済宗の僧
『夢中問答集』
後醍醐天皇や足利尊氏が帰依
天竜寺の開山
夢窓疎石(答)

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足利義満によって
「京都五山」とされた
次のお寺を
格が高い順に選びなさい
天竜寺 てんりゅうじ
相国寺 しょうこくじ
建仁寺 けんにんじ
東福寺 とうふくじ
万寿寺 まんじゅじ
「なん(南禅寺)て塩気の豆腐まんじゅう」

引用元:「天龍寺」霊亀山(れいぎざん) 夢窓疎石が開山した臨済宗のお寺 鎌倉五山「建長寺」「円覚寺」「寿福寺」「浄智寺」「浄妙寺」『見学自由な珍妙な寺』 京都五山「南禅寺」「天竜寺(右京区)」「相国寺(上京区)」「建仁寺(東山区)」「東福寺」「万寿寺」『なんて塩気の豆腐まんじゅう』 http://seethefun.net/%E7%A4%BE%E4%BC%9A/7839/

義堂 周信(ぎどう しゅうしん、1325年3月1日(正中2年閏1月16日) – 1388年5月10日(元中5年/嘉慶2年4月4日))は、南北朝時代から室町時代の臨済宗の僧である。「義堂」は道号、「周信」は法名であり、別に「空華道人」とも号する。

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次の京都の伝統行事を
1年で早く行われる
順に選びなさい
(画像選択肢)
C葵祭 5/15
D祇園祭 7/14 7/21
A五山送り火(大文字焼き) 8/16
B時代祭 10/15

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京都にある臨済宗の寺院
夢窓疎石が開山
山号は霊亀山(れいぎざん)
京都五山の第一位
天龍寺(答)
龍安寺
鹿苑寺
仁和寺
引用元:「天龍寺」霊亀山(れいぎざん) 夢窓疎石が開山した臨済宗のお寺 鎌倉五山「建長寺」「円覚寺」「寿福寺」「浄智寺」「浄妙寺」『見学自由な珍妙な寺』 京都五山「南禅寺」「天竜寺(右京区)」「相国寺(上京区)」「建仁寺(東山区)」「東福寺」「万寿寺」『なんて塩気の豆腐まんじゅう』 http://seethefun.net/%e7%a4%be%e4%bc%9a/7839/

>1359年(延文4年)に幕府が関東地方の統治のために設置した鎌倉公方の足利基氏に招かれて鎌倉へ下向し1380年(康暦2年)まで滞在した。基氏や関東管領の上杉氏などに禅宗を教え、基氏の没後に幼くして鎌倉公方となった足利氏満の教育係も務めた。この間、臨川寺の五山昇位[1]問題や渡諷経事件[2]の解決に尽力しその公明正大、厳正中立な態度で各方面に感銘を与えた。帰京後、3代将軍足利義満の庇護のもと相国寺建立を進言し、建仁寺住職、1386年には南禅寺の住職となり、等持寺住職も務めた。
春屋妙葩や絶海中津と並ぶ、中国文化に通じた五山文学を代表する学問僧とされる。
引用元:義堂周信 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%A0%82%E5%91%A8%E4%BF%A1

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義堂周信『空華集』の基礎的研究
引用元:nk_18_1.pdf http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/1/15990/20141016124407534030/nk_18_1.pdf

室町中期、足利義満時代の臨済宗夢想派の僧侶。師である夢想疎石と同じく中国文化に通じた僧として名声が高かった。当時の禅僧は修学のため中国に渡海するケースが多く、その人的パイプと漢文(当時の東アジア圏は漢字文化であり共通の文章語として機能)の素養から対中国貿易には欠かせぬ存在であり事実足利義満以降の遣明船の正史、副史は悉く京都五山と呼ばれる禅宗の高僧から選出されています。室町将軍の対中貿易第1号である足利尊氏の天竜寺船の天竜寺も臨済宗京都五山筆頭の地位にあるように禅と中国貿易は関係が深い。遣明船による貨幣収入は莫大なものがあり室町幕府の財政基盤を支えた。特に絶海中津は足利義満のブレーンとして大内義弘が叛乱を起こす応永の乱直前にも使者として義弘と面会する等政治的にも重要な役割を担っています。
引用元:義堂周信と絶海中津って何者ですか? – 室町中期… – 日本史 | Yahoo!知恵袋 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1222943307

絶海中津
ぜっかいちゅうしん
(1336―1405)

室町初期の臨済(りんざい)宗夢窓(むそう)派の僧。五山学芸の代表的存在。蕉堅(しょうけん)道人と称する。土佐の人。初め天竜寺に入り、夢窓疎石(そせき)に参じたが、のち建仁(けんにん)寺の竜山徳見(りゅうざんとくけん)に従い、古林清茂(くりんせいむ)の金剛幢下(こんごうとうか)の禅風を学んだ。1368年(正平23・応安1)入明(にゅうみん)し、季潭宗(きたんそうろく)に参じ、絶海の号を受けた。明の太祖の問法に答えたことは有名である。76年(天授2・永和2)帰国後、等持(とうじ)寺、相国(しょうこく)寺、南禅(なんぜん)寺に歴住し、鹿苑僧録(ろくおんそうろく)にも任じられた。応永(おうえい)12年4月5日、70歳で示寂。仏智広照(ぶっちこうしょう)国師、のちに浄印翊聖(じょういんよくしょう)国師と勅諡(ちょくし)された。
 義堂周信(ぎどうしゅうしん)と並んで五山学芸の双璧(そうへき)といわれ、五山文学の基礎をつくった。季潭の師、笑隠大(しょういんだいきん)の『蒲室(ほしつ)集』の影響を受け、わが国の四六文(しろくぶん)流行の先駆をなした。語録(1巻)のほか、詩集『蕉堅藁(しょうけんこう)』(2巻)がある。門下から鄂隠(がくいん)、西胤(せいいん)、用剛(ようごう)などの逸材が出た。[藤岡大拙]
引用元:絶海中津(ぜっかいちゅうしん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%B5%B6%E6%B5%B7%E4%B8%AD%E6%B4%A5-87179