「弘文院」和気広世「奨学院」在原行平「勧学院」藤原冬嗣「学館院」橘嘉智子

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平安時代初期に
和気広世が設立したとされる
大学別曹は弘文院ですが

在原行平が設立したとされる
大学別曹は?
館学弘奨
院文章勧
奨学院(答)
24%

線結び
次の平安貴族の
教育施設「大学別曹」と
それを設立した人物の
正しい組み合わせを選びなさい
奨学院───在原行平
勧学院───藤原冬嗣
弘文院───和気広世
学館院───橘嘉智子

奨学院(しょうがくいん)とは、平安時代の大学別曹の一。大学別曹とは、平安時代の貴族(公家)の教育機関である。
>奨学院は、881年(元慶5年)、在原行平が創設した。奨学院の位置は左京三条、大学寮の南、勧学院の西で、現在の京都府京都市中京区西ノ京南聖町。奨学院には、皇親、諸王、皇別氏族(源氏・平氏・在原氏など)一族、すなわち王氏の子弟が寄宿し、大学寮に通った。900年(昌泰3年)には大学寮南曹として公認され、勧学院と並び「南曹の二窓」と称された。奨学院の運営は勧学院に倣い、別当(校長にあたる)、学頭(学生の首席)などの役職が置かれた。大学別曹は、貴族の衰勢と共に衰微する。平安時代末期の12世紀頃には、奨学院も他の大学別曹と同様、衰微した。
引用元:奨学院 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A8%E5%AD%A6%E9%99%A2

勧学院(かんがくいん)は平安時代の藤原氏の大学別曹である。大学寮の南側(左京3条1坊5町 / 現在の京都市中京区西ノ京勧学院町[1])の地にあったため、大学南曹(だいがくなんそう)とも呼ばれていた。
>勧学院は弘仁12年(821年)、藤原冬嗣によって創建され、貞観14年(872年)以前に大学別曹として公認された。大学別曹は有力氏族の学生のためにつくられた寄宿舎である。
引用元:勧学院 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2

こうぶんいん【弘文院】

和気清麻呂の長子広世が,平安初期(9世紀の初め)に大学別当(大学頭にあたるか)の職にあって大学教育につくすとともに,平安京大学の南にあった私宅を開いて設けた大学別曹(べつそう)。内外経書数千巻を蔵し,墾田30町を学料にあて,父の志をまっとうしたという。大学の南にはその後藤原氏の勧学院,王氏の奨学院が隣りあって開かれ(橘氏の学館院だけは離れていた),弘文院は和気氏諸生の別曹であったというから,平安時代初期に有力な氏族によって建てられた大学別曹(かつては私立学校とされたが,今では説が改められた)の一つ,しかもその中でもっとも古いものであり,和気氏出身の大学の生徒が,ここに寄宿し,勉学し,大学に通ったかと想像される。
引用元:弘文院(こうぶんいん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%BC%98%E6%96%87%E9%99%A2-63115

学館院
がっかんいん

平安時代橘(たちばな)氏のための大学別曹(べっそう)。学官院とも書く。嵯峨(さが)天皇の皇后橘嘉智子(かちこ)が弟の右大臣氏公(うじぎみ)と図って、承和(じょうわ)(834~848)年中に、右京四条の北、西大宮の西にあった淳和(じゅんな)院の中に学舎を開いて、橘氏出身者に経書を読み習わせた。964年(康保1)好古(よしふる)が藤原氏の勧学院に準じて、大学別曹とすることを願い許された。橘氏出身の学生が寄宿し、蔵書で学び、大学に通った。橘氏の不振により衰え、別当職も橘氏の氏長者(うじのちょうじゃ)から九条家に移った。まもなく廃止されたらしく、1147年(久安3)後白河(ごしらかわ)法皇がこの院の再興を命じたときには、その地は耕田になっていたという。しかし、学館院別当職と学館院領とは中世まで存続していた。[大塚徳郎]
『桃裕行著『上代学制の研究』(1947・目黒書店)』
引用元:学館院(がくかんいん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E9%99%A2-43565