榎本武揚「徳川育英会育英黌農業科(後の東京農業大学)設立」「〒記号発案」 佐野常民「適塾に学ぶ」「佐賀藩士」「湯島聖堂で博覧会」「日本赤十字社を創設」 江川英龍「日本初パンを焼く」「品川に砲台を建設」「韮山に反射炉を建造」

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次の幕末・明治期の人物を
学んだ施設ごとに
グループ分けしなさい

松下村塾適塾鳴滝塾
伊東玄朴
佐野常民
前原一誠

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人物は?
(動画出題)
榎本栄龍
渋野武一
江川英揚
佐野常民(答)
さのつねたみ
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1823年現在のこの県で誕生
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日本初の博覧会をここで開く
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初代社長を務める
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人物は?
(動画出題)
佐野武揚
江沢英一
渋川常龍
榎本武揚(答)

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この大学の前身を設立
(東京農業大学)
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このマークを発案する
(〒郵便記号)
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蝦夷共和国総裁に選ばれる
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人物は?
(動画出題)
江川英龍
えがわひでたつ
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兵糧として日本で初めて焼く
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ここに砲台を建設
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韮山にこれを建設

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幕臣。安政3年(1856)長崎海軍伝習所に入所。文久2年(1862)オランダ留学。明治元年(1868)海軍副総裁となる。江戸城開城後、官軍による軍艦の接収を拒否し、函館五稜郭で官軍に抵抗するが降伏。黒田清隆の庇護の下、北海道開発に従事。7年海軍中将兼駐露公使となり、翌年樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て第1次伊藤内閣逓相に就任。黒田内閣農商務相・文相、第1次山県内閣文相、第1次松方内閣外相等を歴任した。
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榎本武揚 | 近代日本人の肖像

>その一方で、旧幕臣子弟への英才教育を目的に、様々な援助活動を展開した。北海道開拓に関与した経験から、農業の重要性を痛感、明治24年(1891年)に徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)を創設し自ら黌長となった。また、明治12年(1879年)、渡辺洪基らと共に「東京地学協会」を設立し、副会長に就任した。明治21年(1888年)から同41年(1908年)まで電気学会初代会長を務めている。
>初代逓信大臣を務めたとき、逓信省の「徽章」を決めることになった。明治20年(1887年)2月8日、「今より(T)字形を以って本省全般の徽章とす」と告示したものの、これが万国共通の料金未納・料金不足の記号「T」と紛らわしいことが判明した。そこで榎本は「Tに棒を一本加えて「〒」にしたらどうだ」と提案し、2月19日の官報で「実は〒の誤りだった」ということにして変更したといわれている。これは、あくまでも郵便マーク誕生に関する諸説のうちのひとつだが、「テイシンショウ」の「テ」にぴたりと合致しており、彼の聡明さを象徴するようなエピソードでもある。
>慶応4年/明治元年(1868年)
1月4日 – 阿波沖海戦で薩摩藩海軍に勝利。
8月19日 – 榎本艦隊、品川沖を出帆。
10月26日 – 箱館占領。
12月15日 – 蝦夷島総裁に選出される。
榎本武揚 – Wikipedia

江川 英龍(えがわ ひでたつ)は、江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。通称の太郎左衛門(たろうざえもん)、号の坦庵(たんあん)の呼び名で知られている。韮山では坦庵と書いて「たんなん」と読むことが多い。
洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地方一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入を果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。
引用元: 江川英龍 – Wikipedia.

江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)とは伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山町)を本拠とした江戸幕府の世襲代官である。太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称である。中でも36代の江川英龍が著名である。
>江川英龍
36代当主、1801 – 1855。号は坦庵。英毅の子。一般には江川太郎左衛門といえば彼を指すことが多い。洋学の導入に貢献し、民政・海防の整備に実績を挙げる。日本で初めてパンを焼いた人物としても知られる。[1]
引用元: 江川太郎左衛門 – Wikipedia.

えがわたろうざえもん【江川太郎左衛門】
 >(1801~1855) 江戸後期の西洋流砲術家。伊豆韮山(にらやま)の代官。名は英竜(ひでたつ)。号は坦庵。1841年に高島秋帆に砲術を学び,翌年江戸で教授。53年から韮山に反射炉を築造,品川の台場を築き,大砲の鋳造も行なった。
引用元: 江川太郎左衛門 とは – コトバンク.

佐野 常民(さの つねたみ、1823年2月8日(文政5年12月28日) – 1902年(明治35年)12月7日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家。日本赤十字社の創始者。官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿、元老院議長。勲等は勲一等。爵位は伯爵。称号は日本赤十字社名誉社員。佐賀の七賢人に挙げられている。名は栄寿、栄寿左衛門。子は佐野常羽。
引用元: 佐野常民 – Wikipedia.

父は佐賀藩士。藩医佐野常徴の養子となる。藩校弘道館を経て江戸、大阪、京都に遊学し、緒方洪庵のもとで学ぶ。その後、長崎海軍伝習所に入り、新しい技術を習得する。慶応3年(1867)パリ万博には藩代表として派遣され、明治5年(1872)にはウイーン万国博覧会副総裁となる。以後、大蔵卿、元老院議長、枢密顧問官などを歴任。25年には松方内閣の農商務相を短期間つとめた。西南戦争の際に傷病兵を敵味方分け隔てなく救済する必要性を感じ博愛社を設立した。博愛社は20年に日本赤十字社と名称を変更し、佐野は初代日本赤十字社社長となった。
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引用元: 佐野常民 | 近代日本人の肖像.