幕末・明治期の技術者
狩野派の画家
ヒュースケンに写真技術を学ぶ
日本初の営業写真館を開業
上野彦馬
岸田吟香
田中久重
下岡蓮杖(答)
幕末・明治期の技術者
幕府の通詞としても活躍
日本橋の鉄橋を長崎に建設
日本活版印刷の先駆者
川本幸民
本木昌造(答)
上野彦馬
下岡蓮杖
「化学」という言葉を考案し
マッチやビールを日本で初めて
制作した、「日本の化学の父」
と呼ばれる幕末の化学者は?
川曜本徹三
真田民原幸
川本幸民(答)
引用元:「川本幸民」マッチやビールを作った日本の化学の父 『遠西奇器述』 | わかればいいのに I wish I knew http://seethefun.net/%e7%90%86%e7%b3%bb%e5%ad%a6%e5%95%8f/17368/
わが国の商業写真の開祖と言われている下田出身の下岡蓮杖は、
幕末開国時に苦労を重ねて写真技術を取得した人物です。
蓮杖は西(長崎)の上野彦馬、東の下岡蓮杖と称されます。
わが国の写真術の草分け的な存在です。幼名は桜田久野助で文政6年に下田中原町(現在の二丁目)に生まれた。
蓮根の杖をいつも愛用していた事から、後に蓮杖と号します。
当初は画家を志して江戸に出て、幕府の御用絵師だった狩野董川に学んだが、銀板写真に出会って衝撃を受け、写真技術の習得のため米人に接触しようと浦賀奉行所の足軽になった
ほか、故郷の下田が開港された事を知り、玉泉寺に設けられたアメリカ領事館に雇われ、幼なじみ「お吉」や「お福」を通して ハリス に頼み込み通訳のヒュースケンに写真の基礎を学んだ。後に横浜に出て、英国人の職業写真家J・ウイルソンに写真機材を譲り受け苦労を重ねて技術を会得した。
写真を志して、18年の月日が流れ1861年(文久元年)に、横浜市中区野毛町に小さな写真館「全楽堂」を開業した。
下岡蓮杖 蓮杖写真記念館 下岡蓮杖 写真
本木 昌造(もとぎ しょうぞう または もとき しょうぞう(未詳、後段参照)、文政7年6月9日(1824年7月5日) – 1875年9月3日)は江戸幕府の通詞、教育者である。諱は永久、幼名作之助または元吉。異表記に昌三、笑三(或は号とも(曲田(1894)))、咲三。
通詞の家系へ養子に入り、幕府の通詞をする傍ら、西洋の興味から操船、造船、製鉄、活字製造などに関わった。また、明治維新後の廃藩置県により職を失くした武士への授産施設として私塾を開き、そこの一事業であった活字製造は、のちに独立して築地活版へと繋がった。私塾の関係者に築地活版の創設者であり石川島造船所の創設者でもある平野富二、横浜毎日新聞の創設者である陽其二がいる。
引用元: 本木昌造 – Wikipedia.もときしょうぞう【本木昌造】 1824‐75(文政7‐明治8)
>幕末の技術家で,日本における活版印刷術の創始者。長崎に生まれ,母の生家,オランダ語の通詞を代々の職とする本木家の養子となり,1835年(天保6)から家業を継いだ。やがて西洋の印刷書への関心は,51年(嘉永4)にオランダ製輸入機械を用いての自著《蘭和通弁》の印刷試作へと進み,流込み活字考案の発端となったが,…
引用元: 本木昌造 とは – コトバンク.銕橋(くろがねばし)とは、長崎市の中島川に架かる橋。国道324号の一部。 河口から数えて6番目の橋で、「てつばし」の愛称で親しまれている[1]。
>1868年(明治元年)に架けられた、我が国初の鉄橋とされている[1]。
鉄橋架橋以前には、「大橋」や「第十五橋」と呼ばれた木造橋が架けられていたが、水害により幾度となく大破・流失していた。 1867年(慶応3年)の豪雨にて橋が大破し、有志らの協力を経て長崎製鉄所の鉄を使った頑丈な鉄橋として架け直されることになった。設計はオランダ人技師ホーゲル、工事は長崎製鉄所頭取の本木昌造が指揮を採り、総工費1万6千両をかけて建設された[1]。
引用元: 銕橋 – Wikipedia.かわもとこうみん【川本幸民】 1810‐71(文化7‐明治4)
>幕末の蘭学者。摂津三田藩医川本周安の三男。名は裕,字は幸民,号は裕軒。1829年(文政12)江戸に出て坪井信道らに蘭学を学ぶ。34年(天保5)藩医,翌年江戸で開業。56年(安政3)幕府の蕃書調所教授手伝,59年教授,62年(文久2)幕臣に列し,明治維新で辞官した。《気海観瀾広義》《遠西奇器述》《化学新書》等を著し,マッチ,ビール,銀板写真を試作するなど,西洋理化学の研究・紹介に尽くした。妻秀子は青地林宗の三女。
引用元: 川本幸民 とは – コトバンク.上野 彦馬(うえの ひこま、天保9年8月27日(1838年10月15日) – 明治37年(1904年)5月22日)は幕末期から明治時代にかけて活動した日本の写真家(写真師)。日本における最初期の写真家で、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られる。号は季渓。家紋は桔梗の二引。
引用元: 上野彦馬 – Wikipedia.下岡蓮杖 しもおか-れんじょう
>1823-1914 幕末-明治時代の写真家。
文政6年2月12日生まれ。写真術をアメリカ総領事ハリスの通訳ヒュースケンや写真家ウンシンにまなび,文久2年(1862)横浜にわが国最初の写真館全楽堂を開業。長崎の上野彦馬とともに職業写真家の先駆者とされる。横山松三郎,江崎礼二らをそだてた。大正3年3月3日死去。92歳。伊豆(いず)下田(静岡県)出身。本姓は桜田。通称は久之助。
引用元: 下岡蓮杖 とは – コトバンク.岸田吟香
きしだぎんこう[生]天保4(1833).4.8. 美作
[没]1905.6.7. 東京
明治初期のジャーナリストで事業家。本名は辰之治または達之治 (元服して太郎,のちに銀次と改名) 。画家岸田劉生の父。波乱の青春をおくったのち,元治1 (1864) 年,眼病の治療にいった縁で J.ヘボンを知り,『和英語林集成』の編集を助ける一方,浜田彦蔵に英語を習った。
岸田吟香(きしだぎんこう)とは – コトバンク田中 久重(たなか ひさしげ、寛政11年9月18日(1799年10月16日) – 明治14年(1881年)1月11日)は、江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。
田中久重 – Wikipedia