「禁闕(きんけつ)の変」1443日野有光が後花園天皇を襲撃

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南朝の再建を図った勢力が
1443年に京都を襲撃した事件
禁闕の変
きんけつのへん(答)
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禁闕の変(きんけつのへん)は、室町時代の嘉吉3年(1443年)9月に京都で起こった後花園天皇内裏の襲撃事件。吉野朝廷(南朝)の復興を唱える後南朝とされる勢力が御所に乱入し、三種の神器の一部を奪い比叡山へ逃れたものである。
「禁闕」とは、皇居(京都御所)の内裏の意味。嘉吉の変とも呼ばれるが、嘉吉元年(1441年)に起こった6代将軍足利義教の暗殺事件(嘉吉の乱)と混同されることから、「禁闕の変」の名称が用いられる。

>奪われた神器のうち、剣は清水寺で発見されるが、神爾は持ち去られたままであった。神爾は14年後の長禄元年(1457年)に、嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が再興を目指して後南朝より奪い返し(長禄の変)、翌年には北朝の手に戻っている。赤松氏は赤松政則の家督相続を認められ、加賀半国を与えられて再興を果たした。
引用元:禁闕の変 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E9%97%95%E3%81%AE%E5%A4%89

きんけつのへん【禁闕の変】

1443年(嘉吉3)9月,南朝遺臣日野有光が神器を奪った事件。有光は将軍足利義勝の早世など嘉吉の乱後の幕府権力の動揺につけこみ,後南朝尊秀王と通じて内裏(禁闕)に侵入して放火し,神璽,宝剣を奪って比叡山に立てこもった。しかし管領畠山持国や延暦寺僧兵に攻められ,尊秀王や子息資親らとともに殺された。この事件の意義はむしろ,後に小寺氏などの赤松氏遺臣たちがこの神璽を奪還することにより,赤松惣領家再興の契機とした点にある。
引用元:禁闕の変(きんけつのへん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%A6%81%E9%97%95%E3%81%AE%E5%A4%89-1160125

日野 有光(ひの ありみつ、元中4年/嘉慶元年(1387年)- 嘉吉3年9月27日(1443年10月20日))は、室町時代前期の公卿。父は権大納言の日野資教。子に日野資親。号を祐光。
足利義満の縁戚でありその寵愛を受け、後に娘は称光天皇の妃となった。1417年(応永24年)に院執権となり、1421年(応永28年)権大納言となるが、1425年(応永32年)に院執権と権大納言を両方辞し、出家して祐光と号す。だが、1427年(応永34年)に足利義持と日野家の確執が原因で室町殿より追放(『看聞日記』応永27年10月24日条)され、続いて称光天皇が男子を残さずに没して皇統が伏見宮系統に移ると、政治的に不遇となった。1443年(嘉吉3年)の嘉吉の乱の後、京都の動揺に乗じ、その後の尊秀王による京都侵入事件(禁闕の変)が起こると神璽と宝剣の神器を奪い比叡山に籠った。しかし畠山持国らに攻められ、子の日野資親と共に斬罪にされた。
引用元:日野有光 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E6%9C%89%E5%85%89

ひのありみつ【日野有光】

1387‐1443(元中4∥嘉慶1‐嘉吉3)
室町前期の公卿。資教の子。1421年(応永28)権大納言に昇進,25年従一位に叙され同年出家し祐光と号す。43年南朝の後胤源尊秀に内通し悪徒を清涼殿に乱入させ,神剣・神璽を奪取し延暦寺根本中堂にこもったが,管領畠山持国や山徒に討たれ,子資親以下50余人が斬首された。神剣は直後に発見され,神璽は58年(長禄2)赤松の遺臣が南朝より奪回した。【鳥居 和之】
引用元:日野有光(ひのありみつ)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%87%8E%E6%9C%89%E5%85%89-120543