「ヘダ号」プチャーチンが帰国のために戸田村で建造した船

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1854年に日露和親条約締結交渉の
ためプチャーチンが下田を訪れた
際に乗っていた軍艦の名前は
ディアナ号ですが

ディアナ号が安政東海地震による
津波で沈没後、帰国のために
日本で作った帆船の名前は
◯◯号? ◯を答えなさい
ヘダ(答)
「戸田号」
21%

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幕末、日本がアメリカに次いで
2番めに和親条約を結んだ国は
ロシアである
×(答)
◯イギリス

ヘダ号[編集]
「エフィム・プチャーチン」および「君沢形」も参照
ヘダ号は、戸田村に感謝し命名された日露合同で造船された西洋式帆船の船名。

沼津市の戸田地区 写真は2010年のもの
1854年12月23日(嘉永7年11月4日)の安政東海地震によって伊豆半島は津波の被害にあった。この時、ロシアの海軍中将であるエフィム・プチャーチンは日本との国交樹立交渉のため、フリゲート「ディアナ号」(2000トン級)にて来日し、下田に停泊していた。津波によりディアナ号は直撃を何度も受け、半日もの間激しく湾内を旋回した後、沈没は免れたが、大破した。
ディアナ号は破損した船体を修復すべく、幕府の許しを得て、戸田村へ向かったが、航行中に強風と大波にあい1855年1月15日(安政元年11月27日)に田子の浦沖で座礁し、1855年1月19日(安政元年12月2日)に沈没する。幸いにプチャーチンと乗組員は、大地震の被災者でもある地元の人々の協力により救助され、宮島村(静岡県富士市)に上陸する。 プチャーチン使節団の応接掛であった川路聖謨も、ただちに救難対策を講じた。この時、ロシア人一行は、自身のおかれた状況も顧みず、献身的に救助してくれた地元の人々に対し大いに感謝したと伝わっている。
引用元:戸田村 (静岡県) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%94%B0%E6%9D%91_(%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C)

【嘉永大地震の津波が下田を襲う】

1.安政元(嘉永7)年(1854)11月4日、東海道の大地震。安政東海地震。震源地遠州なだ沖。マグニチュード8.4。死者約2千~3千人。下田も壊滅的な打撃を受けている。
(地震の23日後に嘉永から安政に変わった)

この津波で、ディアナ号の乗組員1人が死亡、2人が負傷したほか、ディアナ号も船体構成の基礎となる竜骨の一部がもぎとられ、舵(かじ)を失ってしまった。また、艦の負担を軽くするため、積載していた52門の大砲を陸に降ろすことを余儀なくされた。

>最新式「ディアナ号」は、長さ52メートル、
2,000トン、大砲52門を搭載、乗員500名

津波被害により艦長・プチャーチンはディアナ号の修理港の貸与を幕府に願い出た。

幕府は下田、長津呂、網代、稲取といった修理地を提案したが、プチャーチンはこれを受け入れなかった。 下田は日本の数少ない開港地でアメリカの来航多く、敵対国イギリス・フランスの艦船が入港する可能性が高かったからだ。

結局、被災から13日後の17日、「伊豆国内であれば応接掛の独自の許可で修理地の臨機使用を認める」という許可を川路聖謨が与えた。

日露から調査員を派遣し合ってディアナ号の修理地を船で探した結果、伊豆西岸の駿河湾を北上して見つかった戸田湊が選定された。

>【日本初の本格的洋式帆船・ヘダ号】
ロシア艦隊乗組員から代船建造の建議が起こる。外洋走行可能な小型帆走艇をこの地で急造して、ロシア本国に救援を求めに走ろう。設計と製作指導は乗員の能力に頼れる。建造体制の確保と人員資材の亭給を日本側にお願いしたい。設計図は日本に置いていく。経費は後日ロシア国が支払う。 日本側は、幕府を先頭にこの提案に載った。洋式の造船技術導入のために、願ってもない話だ。この地に近い韮山代官・江川太郎左右衛門は、この頃、製鉄用の反射炉の建設を試みたりしてきている技術官僚で、建造取締役に任ぜられた。
代艦の設計は、ディアナ号の所持品にあったスクーナー・オープイト号の設計図をもとに、ロシアの技術士官・モジャイスキー海軍大尉と日本造船世話掛(船大工の棟りょう)によって行われた。2本マストの60人乗りの木造帆船で、全長約25メートル、幅約7メートル、80から100トンほどの船となったという。材料の木材は沼津千本松原から伐採した松材が用いられた。鋼板、鉄板、釘、鋲などは幕府を通じて調達された。 代艦は80日余りで完成し、安政2年3月10日に進水式が行われた。プチャーチンは、戸田の住民らに感謝を込めて、新造船を「ヘダ号」と名付けた。
引用元:ディアナ号とヘダ号 http://nouheibushi.kan-be.com/page010.html

249 日本に近代造船技術をもたらしたロシア軍艦ディアナ号の遭難事件
 安政元年(1854年)11月に起こった安政大地震による津波で、折りしも日露和親条約締結交渉のために伊豆下田に碇泊していたロシア使節プチャーチンの乗艦ディアナ号が大破。修理のために君沢郡の戸田に回航中に沈没した。
 酷寒の海に投げ出された約500人の乗組員は沿岸の漁民たちが総出で救出し、ロシア側に大きな感銘を与えた。こうした信頼感もあってかプチャーチンは幕府の許可を得て戸田港で帰国のための代船を建造することにした。
 これに大いに協力したのが開明派の代官江川太郎左衛門。本格的な洋式帆船の建造技術を習得する絶好のチャンスと近郷はもとより江戸からも優秀な船匠や鍛冶を呼び寄せた。
 設計と監督はロシア側が行ったが、艤装用金具から塗料まですべて現地で作ったため技術習得の成果は実に大きかった。
 建造された第一船は戸田(へだ)の地名から「ヘダ号」と命名され、もう一隻の同型船とともに、条約締結の使命を果たしたプチャーチン一行を乗せ、無事ロシアへの帰途についた。
 このとき建造されたのは二本マストのスクーナー型帆船で、幕府がのどから手が出るほど欲しかった洋式軍艦への転用には不向きだったが、高速を生かした貨物の輸送には適していた。このため「君沢型」と名付けられた同型船がその後何隻も建造され、長く活躍した。
引用元:日本船主協会:海運資料室:海運雑学ゼミナール http://www.jsanet.or.jp/seminar/text/seminar_249.html