せんえんのめい「澶淵の盟」1004澶州(せんしゅう)で締結した遼と宋の平和条約 

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1004年に遼の聖宗と宋の真宗が
結んだ平和条約のこと
せんえんのめい(答)
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「澶淵の盟」

澶淵の盟(せんえんのめい、澶は氵に亶)は、1004年に北宋と遼の間にて結ばれた盟約である。国境の現状維持、不戦、宋が遼を弟とすること、宋から遼に対して年間絹20万匹・銀10万両を送ることなどが決められた。
この時期に、当事国の一方の国号が「遼」と「契丹」との間で何度か入れ替わるが、この記事中では全て「遼」で統一する。
引用元:セン淵の盟 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E6%B7%B5%E3%81%AE%E7%9B%9F

せんえん‐の‐めい【澶淵の盟】

1004年、南下して黄河に達した遼と宋との間に結ばれた平和条約。宋は遼に歳幣を贈り、国境は現状を維持することなどを約した。以後、1世紀以上にわたり平和が続き、遼は宋の影響を受けて文化・経済面で大きく発展した。澶淵は条約の締結地澶州(せんしゅう)のこと。
引用元:澶淵の盟(センエンノメイ)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%BE%B6%E6%B7%B5%E3%81%AE%E7%9B%9F-549398

1004年に締結された遼(契丹)と宋の間の講和の取り決め。宋の真宗を兄、遼の聖宗を弟としたが、宋は遼に銀・絹布を歳幣を納めることを約した。

 せんえんのめい。1004年に成立した、遼(契丹)と宋の講和条約。燕雲十六州の割譲以来、後晋以後の漢民族の後漢・後周・宋の各王朝は、その奪回を試みたが、いずれも成功しなかった。また遼も、946年には後晋の都汴京を陥れ(そのとき国号を遼と称した)たが、漢民族の抵抗を受け7ヶ月で撤退した。この争いは宋代となっても続き、宋にとっては遼との戦争による出費が大きな負担となっていた。
 1004年に遼の聖宗(第6代皇帝)は大軍を侵攻させ、黄河の北岸に迫った。宋の真宗は自ら黄河を渡って抵抗の姿勢を示すとともに、遼との和平交渉を行い、両国の講和を成立させた。それによって宋は三州を復帰させたが、残りの州の遼の支配を正式に認め、国境線を現状維持とし、また宋は毎年、銀10万両、絹布20万匹を遼に贈与することを約束した。外交文書の上では、年少の遼の聖宗が、年長の宋の真宗を兄と呼んだが、事実上は遼にとって有利な講和条約であった。この和議によって、1122年までのおよそ120年間の平和が実現された。
引用元:澶淵の盟 http://www.y-history.net/appendix/wh0303-015.html