さっさなりまさ「佐々成政」 ザラ峠越え 

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ザラ峠越えで有名な
織田信長に仕えた武将
佐々成政
さっさなりまさ(答)

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三伏峠───さんぷくとうげ 2580m
針ノ木峠───はりのきとうげ 2536m
麦草峠───むぎくさとうげ 2120m
金精峠───こんせいとうげ 2024m
大菩薩峠───だいぼさつとうげ 1897m
野麦峠───のむぎとうげ 1672m
和田峠───わだとうげ 1531m

「三針婿頼むわ」
山で怪我したお婿さんの治療を頼むイメージ
引用元:「8000m峰はアジアだけ」「日本に3000m峰は10以上ある」 北アルプス「奥穂高岳」「焼岳」「立山」「白馬岳(しろうまだけ)」「乗鞍岳」 峠標高順「三伏峠」「針ノ木峠」「麦草峠」「金精峠」「大菩薩峠」「野麦峠」「和田峠」『三針婿頼むわ』 http://seethefun.net/%e7%a4%be%e4%bc%9a/8269/

佐々 成政(さっさ なりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。佐々成宗(盛政とも)の子。通称は内蔵助。家紋は棕櫚。馬印は金の三階菅笠。鷹司孝子(本理院)の外祖父。
>織田信長に仕え、馬廻から戦功を重ねて頭角を表す。永禄4年(1561年)、森部の戦いで敵将・稲葉又右衛門(常通。稲葉一鉄の叔父)を池田恒興と共に討ち取る大功を立てる。永禄10年(1567年)、黒母衣衆の一員に抜擢された。元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いに先立つ「八相山の退口」では、簗田広正・中条家忠らと共に少数の馬廻衆を率いて殿軍に参加し、鉄砲隊を用いて活躍したとされる(『信長公記』・『当代記』) 。
引用元:佐々成政 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%88%90%E6%94%BF

佐々成政の「さらさら越え」(1584年)

1584年戦国の武将佐々成政は、芦峅寺の中語(ちゅうご:山岳ガイド)を先導に家臣18人と厳冬の北アルプスを横断した(*1)。現代においてさえ容易に人を寄せ付けない厳冬の北アルプス、この時代のことを考えれば日本山岳史上に残る出来事と言えるだろう。この「さらさら越え」のルートであるが、資料も少なく正確な道筋は不明であるが、一般には

常願寺川—>立山温泉—>ザラ峠—>中ノ谷—>刈安峠—>黒部川の平
—>針ノ木谷—>針ノ木峠—>籠川谷

と言われている(*2)。
(*1)織田信長没後、勢力を伸ばしてきた羽柴秀吉に対して、成政は信長の次男信雄を推して織田家再興をはかるべしと遠州浜松の家康に会って進言しようとする。しかし、西に前田家、東に上杉家、南は秀吉の勢力範囲とすべて敵の領地。そこで考えたのが厳冬の立山連峰を越えて信州に出るという無謀とも思える北アルプス横断であった。
(*2)その他の説として、針ノ木谷から北葛乗越を越え北葛沢へ出るルート、七倉乗越を越え七倉沢に出るルートがある。
引用元:五色ヶ原ホームページ http://www.goshikigahara.com/inisie.htm