「佐渡への配流」文覚 日野資朝 順徳天皇 日蓮

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文覚 もんがく
日野資朝 ひのすけとも
順徳天皇
日蓮
八丈島への配流
土佐への配流
三宅島への配流
佐渡への配流(答)
56%


伴健岑 とものこわみね
源義親 みなもとのよしちか
小野篁 おののたかむら
後醍醐天皇
隠岐への配流(答)


次の承久の乱に関わった上皇と
終結した後の配流地の
正しい組み合わせを選びなさい
順徳天皇───佐渡島
後鳥羽上皇───隠岐島
土御門天皇───土佐国

流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。現代の先進民主主義国において流罪は絶対的不定期刑に該当するとして、罪刑法定主義と言う近代刑法原則の派生原理から禁止されている。
歴史的には、本土での投獄より重い刑罰としてのほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた
日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアやオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。
>佐渡国:安宿王、伴国道、藤原致忠、源頼治、源義綱、源明国、藤原盛憲、源成雅、文覚、順徳上皇、日蓮、京極為兼、日野資朝、世阿弥、小倉実起
>隠岐国:藤原田麻呂、藤原刷雄、藤原雄依、小野篁、伴健岑、藤原千晴、平致頼、源頼房、源義親、藤原経憲、板垣兼信、佐々木広綱、後鳥羽上皇、後醍醐天皇
>土佐国:蘇我赤兄、石上乙麻呂、大伴古慈斐、池田王、氷上志計志麻呂、弓削浄人、讃岐永直、紀夏井、菅原高視、源則理、源頼親、源頼資、源光信、源盛行、藤原実清、藤原師長、源希義、源隆保、法然、宇都宮朝綱、土御門上皇、京極為兼、尊良親王
引用元:流罪 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E7%BD%AA

文覚(もんがく、保延5年(1139年) – 建仁3年7月21日(1203年8月29日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。
>頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたが、 頼朝が死去すると将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり、 三左衛門事件に連座して源通親に佐渡国へ配流される。 通親の死後許されて京に戻るが、六代はすでに処刑されており、 さらに元久2年(1205年)、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死した[5]。
引用元:文覚 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%A6%9A

日野資朝 ひの-すけとも

1290-1332 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
正応(しょうおう)3年生まれ。日野俊光の次男。日野資名の弟。従三位,権(ごんの)中納言。後醍醐(ごだいご)天皇の側近として,日野俊基らとともに天皇の討幕計画(正中(しょうちゅう)の変)にくわわり,謀議が発覚して捕らえられ佐渡に流された。再度の討幕計画(元弘(げんこう)の乱)が失敗して天皇が隠岐(おき)に流された際,正慶(しょうきょう)元=元弘2年6月2日配所で殺された。43歳。
【格言など】五蘊(ごうん)仮に形を成し 四大今空に帰す 首(こうべ)を将(も)って白刃に当つ 截断(さいだん)一陣の風(辞世)
引用元:日野資朝(ひのすけとも)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%B3%87%E6%9C%9D-120573

順徳天皇
じゅんとくてんのう
(1197―1242)

第84代の天皇(在位1210~21)。名は守成(もりなり)。後鳥羽(ごとば)天皇の第3皇子。母は藤原範季(のりすえ)の女(むすめ)重子(修明門院(しゅめいもんいん))。建久(けんきゅう)8年9月10日誕生。父の後鳥羽上皇とともに討幕計画を進め、1221年(承久3)に承久(じょうきゅう)の乱を起こしたが、幕府軍に敗れ、佐渡に配流された。学問を好み、また優れた歌人でもあった。故実書『禁秘抄(きんぴしょう)』、歌論書『八雲御抄(やくもみしょう)』の著作があり、歌集に『順徳院御集』がある。仁治(にんじ)3年9月12日、配所で没した。陵墓は京都市左京区大原来迎院(らいごういん)町の大原陵。[山本博也]
引用元:順徳天皇(じゅんとくてんのう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%A0%86%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87-78685

日蓮(にちれん、貞応元年(1222年)2月16日[1][注釈 1] – 弘安5年(1282年)10月13日)[注釈 2]は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教の十三宗のひとつ日蓮宗 (法華宗) の宗祖。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。
>1271年(文永8年) 7月 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。 9月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。 平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れる[注釈 7]。このとき四条金吾がお供をし、刑が執行されたならば自害する覚悟であったと記録されている。
詳細は「龍口#歴史」および「龍口寺#縁起」を参照
10月 評定の結果佐渡へ流罪。流罪中の3年間に『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述。また法華曼荼羅を完成させた。日蓮の教学や人生はこれ以前(佐前)と以後(佐後)で大きく変わることから、日蓮の研究者はこの佐渡流罪を重要な契機としてその人生を二分して考えることが一般的である[10]。
引用元:日蓮 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE