賤ヶ岳の戦い「柴田勝家」「前田利家」「羽柴秀吉」 織田信長が参戦「姉川の戦い」「桶狭間の戦い」「長篠の戦い」

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次のうち、1583年の
賤ヶ岳の戦いに参加した
武将を1つ選びなさい
浅井長政
明智光秀
徳川家康
武田勝頼
織田信長
柴田勝家(答)
前田利家(答)
羽柴秀吉(答)
64%

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次のうち、戦国武将・
織田信長が参加した戦いを
1つ選びなさい
姉川の戦い(答)
耳川の戦い
桶狭間の戦い(答)
小牧・長久手の戦い
山崎の戦い
長篠の戦い(答)
賤ヶ岳の戦い
川中島の戦い

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次のうち、1582年の
山崎の戦いに参加した
武将を1つ選びなさい
明智光秀(答)
浅井長政
柴田勝家
羽柴秀吉(答)
徳川家康
石田三成

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1570年に織田信長・徳川家康の
連合軍が浅井長政・朝倉義景の
連合軍を破った戦いがあった
場所はどこ?
(画像選択肢)
1の画像 1573「三方ヶ原の戦い」静岡県浜松市北区三方原町
2の画像 1553「川中島の戦い」長野県長野市南郊
3の画像(答)1570「姉川の戦い」滋賀県長浜市姉川河原
4の画像 1582「山崎の戦い」京都府乙訓郡大山崎町
引用元:「戦国時代の合戦と都道府県」長野県「川中島の戦い」滋賀県「姉川の戦い」静岡県「三方ヶ原の戦い」京都府「山崎の戦い」羽柴秀吉と明智光秀 http://seethefun.net/%e6%96%87%e7%b3%bb%e5%ad%a6%e5%95%8f/7485/

賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で行われた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と織田家最古参の重臣柴田勝家との戦いである。この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって亡き織田信長が築き上げた権力と体制の正統な継承者となることを決定づけた。
引用元:賤ヶ岳の戦い – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E3%83%B6%E5%B2%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

姉川の戦い
あねがわのたたかい

元亀1 (1570) 年6月 28日,近江国姉川の流域で行われた織田信長,徳川家康連合軍と浅井長政,朝倉義景の族将同景健連合軍との戦い。これより先,信長は足利義昭を将軍職に推して上洛したが,越前朝倉氏と近江浅井氏はともに畿内における信長勢力の伸張をはばもうとし,しばしば信長と戦った。
引用元:姉川の戦い(あねがわのたたかい)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A7%89%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-26456

みみかわのたたかい【耳川の戦】

1578年(天正6)11月12日に日向国高城(たかじよう)(現,宮崎県北諸県郡高城町)をめぐって行われた大友氏と島津氏の決戦。薩摩・大隅両国の大名島津義久は,77年末に隣国最有力の大名で大友氏と同盟関係にある伊東氏を日向から駆逐した。その結果大友被官で豊後国境近くの県(あがた)(現,延岡市内)を握る土持親成が島津被官になり,日向守護職をもつ大友氏の被官米良氏らが日向で孤立することになった。このため大友義統(よしむね)は翌年2月日向攻撃,つまり島津氏との対決を決意した。
引用元:耳川の戦(みみかわのたたかい)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%80%B3%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6-872554

こまきながくてのたたかい【小牧・長久手の戦】

羽柴(豊臣)秀吉と織田信雄(のぶかつ)・徳川家康との間で,尾張の小牧・長久手を中心として広範な地域にわたった戦い。織田信長の死後,秀吉がしだいに勢力を得るにしたがい,両者の対立関係は激化した。1584年(天正12)3月秀吉軍は伊勢方面から侵攻し,その間に北尾張に飛火して秀吉方の池田恒興が犬山城を占拠したが,家康が小牧山に布陣したので尾張北部からの侵攻は困難となった。家康は土佐の長宗我部氏や紀伊の雑賀,根来一揆と結び,大坂の背後をおびやかさせたので秀吉の東下が遅れた。
引用元:小牧・長久手の戦(こまきながくてのたたかい)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E7%89%A7%EF%BD%A5%E9%95%B7%E4%B9%85%E6%89%8B%E3%81%AE%E6%88%A6-1167081

山崎の戦い
やまざきのたたかい

1582年(天正10)6月、本能寺の変のあと、羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉(とよとみひでよし))が山城国(やましろのくに)山崎(京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町)で明智光秀(あけちみつひで)を討った戦い。本能寺の変の起こったとき秀吉は、毛利輝元(もうりてるもと)の部将清水宗治(しみずむねはる)の備中(びっちゅう)高松城を水攻めにしていた。信長の死を知った秀吉は、それを秘して毛利氏と講和を結び、2日後には姫路城に戻って軍備を整え、そのあと摂津国富田(とんだ)(大阪府高槻(たかつき)市)まで進軍した。その間、高山右近(たかやまうこん)、細川幽斎(ほそかわゆうさい)、筒井順慶(つついじゅんけい)らが秀吉に味方し、秀吉勢は約2万6000ほどとなった。一方、光秀は、毛利氏が秀吉の背面をつくものと期待したが、毛利氏は呼応せず、光秀は約1万6000の兵をもって山崎で対陣した。合戦は1日で終わり、光秀は敗走の途中、山城国小栗栖(おぐるす)で土民に襲撃されて死んだ。山崎の合戦に勝利した秀吉はそのあと天下統一の道を進む。それとともに太閤検地(たいこうけんち)を施行し始める。[北島万次]
『高柳光寿著『明智光秀』(1958・吉川弘文館)』
引用元:山崎の戦い(やまざきのたたかい)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-144100

長篠の戦【ながしののたたかい】

1575年織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼が三河国長篠付近で戦った合戦。三河に侵入し,長篠城を囲んだ勝頼軍を,信長・家康軍が城の西約2kmの設楽原(したらがはら)に馬防柵(さく)を設け鉄砲3000挺(ちょう)の一斉射撃で武田方の突撃する騎馬軍を撃ち,これを大敗せしめた。
引用元:長篠の戦(ながしののたたかい)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6-857128

賤ヶ岳の戦い
しずがたけのたたかい

天正 11 (1583) 年4月 21日近江国賤ヶ岳を中心に行われた豊臣秀吉と柴田勝家の戦い。本能寺の変後,明智光秀を討ち,京畿を収め勢威を増した豊臣秀吉と,織田家随一の宿老を自認する柴田勝家が,信長の後継問題で対立し,勝家は滝川一益,信長の3男信孝と結び,秀吉を除くことを企て,その年冬から天正 11年2月にかけて戦いが始ったが,越前北庄に本拠をおく勝家は雪のため動けず,その2月ようやく出陣し,4月秀吉軍と賤ヶ岳付近で対峙した。
引用元:賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%B3%A4%E3%83%B6%E5%B2%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-73462

川中島の戦い
かわなかじまのたたかい

戦国時代に甲斐(かい)の武田信玄(たけだしんげん)と越後(えちご)の長尾景虎(ながおかげとら)(後の上杉謙信(うえすぎけんしん))とが、信州(しんしゅう)川中島(長野市川中島町)で北信濃(きたしなの)の領有をめぐり数度対戦した合戦の総称。合戦は1553年(天文22)から1564年(永禄7)の長期にわたって行われ、おもな対戦だけでも1553年、1555年(弘治1)、1557年、1561年(永禄4)、1564年の5回が数えられるが、もっとも激しい合戦であった1561年9月10日の戦いのみをいう場合もある。
引用元:川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B7%9D%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-48312