武田信玄の最後 辞世「大ていは地に任せて肌骨好し 紅粉を塗らず自ら風流」 明智光秀の辞世「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」

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野田城の戦い
「大ていは地に任せて~」
病状が悪化して撤退
現在の長野県で病死
上杉謙信の最期
豊臣秀吉の最期
徳川家康の最期
武田信玄の最期(答)


簗田政綱
服部小平太
毛利新助
桶狭間の戦い
今川義元の最期(答)


阿弥陀ヶ峰に遺体を埋葬
葬儀は行われず
伏見城で死去
露と落ち露と消えにし~
豊臣秀吉の最期(答)


手取川の戦い
四十九年一炊の夢~
遠征再会の直前に病死
春日山城で死去
上杉謙信の最期(答)

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次の文字列を順に選んで
戦国の武将・明智光秀の
辞世にしなさい
順逆無二門 じゅんぎゃくにもんなし
大道徹心源 だいどうしんげんにとおる
五十五年夢 ごじゅうごねんのゆめ
覚来帰一元 さめきたりいちげんにきす



次の文字列を順に選んで戦国の武将・上杉謙信の辞世の句である漢詩にしなさい
四十九年 しじゅうくねん
一睡夢 いっすいのゆめ
一期栄華 いちごのえいが
一盃酒 いっぱいのさけ



戦国武将・上杉謙信の辞世の句は「極楽も地獄も先は有明の◯◯◯◯◯◯◯◯◯?
月ぞ心に懸る雲なき(答)


織田信長が比叡山焼き討ちの後 近江国平定のため、明智光秀に築城させた今は無き城は○○城?
さかもと(答)
坂本城

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次のうち
合戦で戦死したとされる
戦国武将を全て選びなさい
武田信玄
北条早雲
斎藤道三(答)
今川義元(答)
加藤清正
上杉謙信

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる[3]。
甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃で病没した。
>信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈する(一説では、三方ヶ原の戦いの首実検のときに喀血が再発したとも)など持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、近習・一門衆の合議にては4月初旬には遂に甲斐に撤退することとなる。
4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去する、享年53[31]。臨終の地点は小山田信茂宛御宿堅物書状写によれば三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされているが、浪合や根羽とする説もある。戒名は法性院機山信玄。菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺。
辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。
『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。
引用元:武田信玄 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84

明智光秀 生没:1528~1582年
辞世の句【順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元】
解釈:間違ったことはしていない。全ては心のままにやった事だ。55年の夢から覚めてこれから新しい人生が始まるのである。我が心を知らぬ者は何とでも言えばいい。この身も惜しくない、名も惜しくない。

上杉謙信 死没:1530~1578年
辞世の句【極楽も地獄もともに有明の 月ぞこころにかかる月かな 極楽も地獄も先はありあけの 月の心にかかるくもなし 四十九年一夢の栄 一期栄花一盃の酒 四十九年夢中酔 一生栄耀一盃酒】
解釈:己の四十九年は一眠りした間に見た夢のように儚い出来事だった。この生涯で極めた栄光も結局は一杯の酒のようで二杯目は無かった。

武田信玄 生没:1521~1573年
辞世の句【大ていは地に任せて肌骨好し 紅粉を塗らず自ら風流】
解釈:此の世は、世相(世の中の流れ)に任せるものだ。その中で自分を見出し、死んで行く。見せ掛けで、生きてはいけない。生きるのは本音で生きることが、一番楽である。

豊臣秀吉 生没:1536~1598年
辞世の句【つゆとをち つゆときへにし わかみかな なにわの事もゆめの又ゆめ 露とちり雫と消える世の中に 何とのこれる心なるらん】
解釈:今思えば朝露が消えるようにアッという間の一生だった。我が人生は夢の中で夢を見ているような、儚いものであったことよ。
引用元:武将にまつわる「深イイ話」と「辞世の句」 http://www.s-b.biz/iihanasi/

斎藤道三 さいとう-どうさん

1494/1504-1556 戦国時代の武将。
明応3/永正(えいしょう)元年5月生まれ。天文(てんぶん)3年美濃(みの)(岐阜県)守護土岐(とき)氏の家臣長井景弘を討ち,6年ごろ守護代斎藤氏の名跡をつぐ。11年土岐頼芸(よりなり)から美濃をうばい,17年娘の濃姫(のうひめ)を織田信長の妻とする。のち子の斎藤義竜(よしたつ)とたたかい,弘治(こうじ)2年4月20日長良川(ながらがわ)河畔で敗死。53/63歳。山城(京都府)出身。初名は長井規秀。名は利政とも。通称は勘九郎,新九郎。
【格言など】捨ててだにこの世のほかはなき物をいづくかつひのすみかなりけん(辞世)
引用元:斎藤道三(さいとうどうさん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%81%93%E4%B8%89-68115

今川義元 いまがわ-よしもと

1519-1560 戦国時代の武将。
永正(えいしょう)16年生まれ。今川氏親の子。母は寿桂尼。兄氏輝の死で駿河(するが)・遠江(とおとうみ)(静岡県)を領国とする家督をつぐ。太原崇孚(たいげん-そうふ)に補佐され,織田氏を攻め三河(愛知県)も支配,今川家の全盛時代をきずく。北条氏康,武田信玄と三国同盟をむすんで東方を安定させたのち,永禄(えいろく)3年西へむかい尾張(おわり)(愛知県)に侵入。織田信長の奇襲をうけ,桶狭間(おけはざま)で同年5月19日討ち死にした。42歳。
【格言など】第一なすべき文・武を,二つながら廃せり。今これを改めずんば,国覆り家滅せんこと必定なり(息子氏真にあたえた教訓)
引用元:今川義元(いまがわよしもと)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%85%83-32217

ちなみに戦国武将の死因ですが

伊達政宗=癌性の腹膜炎

上杉謙信=脳溢血

武田信玄=胃癌(肺結核など諸説あり)

毛利元就=食道癌?

北条早雲=老衰?(苦しむことなく、眠るように息を引き取ったという)

北条氏康=中風(もしくは胃癌)

加藤清正=脳溢血または腎虚(一説には花柳病=性感染症)

蒲生氏郷=直腸癌あるいは膵臓癌

といわれています。今川義元は病死でなく、討死です。
引用元:戦国大名の死因は、分かっているのですか? – 武田信玄は、肺がんだったとか。… – Yahoo!知恵袋 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1330715318