「乱妨取り」合戦後兵士の掠奪行為

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戦国時代の合戦の後に起きた
兵士が人や物を掠奪した行為の
ことを「◯◯取り」という?
害気
本雑
凶暴
乱妨(答)
「乱妨取り」

乱妨取り(らんぼうどり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、戦いの後で兵士が人や物を掠奪した行為。一般には、これを略して乱取り(らんどり・乱取)と呼称された。
当時の軍隊における兵士は農民が多く、食料の配給や戦地での掠奪目的の自主的参加が見られた。人狩りの戦利品が戦後、市に出され、大名もそれら乱暴狼藉を黙過したり、褒美として付近を自由に乱取りさせた。それら狼藉は悪事ではないとされた。
凶作・水害・疫病が起こると、大名は食料獲得のため隣国へ戦争をした。その結果として領土を獲得し、家臣団に与えて下克上の芽を摘み取った。その上で、戦場付近の村を襲い、農作物を根こそぎ奪い、女・子供をさらい売り払うか奴隷にするかした。当時の人身売買の相場は、通常2貫文(約30万円)であったが、大量に乱取りが行われる戦の直後は25文(約4千円)に急落した。女性を強姦し、抵抗する者は殺した。
引用元:乱妨取り – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%B1%E5%A6%A8%E5%8F%96%E3%82%8A

藤木によると洋の東西を問わず、『少なくとも古代末以来、中世を通じて、どの戦いにも一貫して、物や人を奪うことを主な目的とした、掠奪戦争という本性が隠されていたことは確実』(藤木2005 P78)であったという。では、何故掠奪や奴隷狩りを当たり前のこととする観念が成立していたのか。

中世社会には、重犯罪人の財産は、刑の執行(検断)を行う者のものとなるという原則があった。これは罪人のみならず眷族にも連座して適用されるため、刑の執行に際しては激しい抵抗がおき、検断人はこれを武力で排除して財産を没収、検断人たちで山分けした。このような検断の正当性が戦争における略奪の正当化の由来となったとされる。また、奴隷狩りについても、『飢饉のときに養った者を下人とすること(飢饉奴隷)』、『重い罪を犯して死刑にあうべき者を許して下人とすること(犯罪奴隷)』を正当と考える習慣があり、これが『戦死すべき生命を救うことで下人(戦争奴隷)とすること』(藤木2005 P84)を正当であるとする観念に結び付いたという。
引用元:戦国時代の日常茶飯事「掠奪・奴隷狩り・人身売買」について | Kousyoublog http://kousyou.cc/archives/4686

落ち武者狩り(おちむしゃがり)は、日本の戦国時代に百姓が自分の村の地域自衛の一環として、敗戦で支配権力が変わった時に敵方の逃亡武将(落武者)を探して略奪し、殺害した慣行である[1]。武将の鎧や刀など装備を剥いで売ったり金品など得るためでもあり、「落ち武者襲撃慣行」ともよばれる[2]。
室町時代初めにすでに原型が見られ、室町中期には京都周辺で僧兵の落人狩りが幕府の呼びかけでなされた。敗者を「法の外の人」とみる中世以来の習慣の存在と、村の問題は自分たちで解決する自力救済の考えに基づく成敗権と武力行使が根底にあり[3]、特に戦国時代には慣行として許され、地域では惣村の力が強く慣行には手がつけられない面があり、広く展開し、豊臣秀吉の「惣無事令」から始まる身分固定・成敗権の否定を伴う一連の政策まで存続していた。
引用元:落ち武者狩り – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E3%81%A1%E6%AD%A6%E8%80%85%E7%8B%A9%E3%82%8A