大犯三箇条「大番催促」「謀反人の逮捕」「殺害人の逮捕」

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次のうち
鎌倉時代の守護の権限
「大犯(たいぼん)三カ条」
にあたるものを全て選びなさい
謀反人の逮捕(答)
大番役の催促(答)
殺害人の逮捕(答)
荘園の管理

タイピング
理屈のわからない相手と争っても無駄であることを意味する言葉は「泣く子と◯◯には勝てぬ」?
じとう(答)
「泣く子と地頭には勝てぬ」

MVBuDYz
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
引用元:第17回日本史講座まとめ③(守護と地頭) : 山武の世界史 http://yamatake19.exblog.jp/21118461/

だいぼんさんかじょう【大犯三箇条】

鎌倉・室町幕府において,守護の職権事項と定められた,謀叛人,殺害人の検断と京都大番役の催促の3項をいう(この場合の守護検断権の本質が,守護が公家領・本所領にも立ち入って犯人を逮捕できる点にあるか,犯人の処断にあるかは説が分かれている)。この職権規定は将軍源頼朝の時代に設けられたが,その後,1232年(貞永1)制定の《御成敗式目》では夜討,強盗,山賊,海賊が加えられ,放火も盗賊に準ずる犯罪として同じ扱いになったようである。
引用元:大犯三箇条(だいぼんさんかじょう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E7%8A%AF%E4%B8%89%E7%AE%87%E6%9D%A1-92028

大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)とは、鎌倉幕府、室町幕府における守護の基本的権限。御成敗式目において成文化された。ただし、以下のように近年においては様々な異説が出されている。
その原型は平安時代に追捕の対象とされ、必要に応じて追捕使・押領使が任命・派遣された重犯(重科)の処断に由来する。鎌倉幕府の守護も元は追捕使・押領使の性格を受け継いでおり、「重犯」のことを「大犯」とも称した。通説としては、『御成敗式目』第3条本文が例示する3つを「大犯三箇条」と称したとされている[1]。
>守護には以下の3つの権限があった。
大番催促  
謀反人の検断
殺害人の検断
引用元:大犯三箇条 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%8A%AF%E4%B8%89%E7%AE%87%E6%9D%A1

日本の荘園は、奈良時代に律令制下で農地増加を図るために墾田私有を認めたことに始まる(初期荘園)。平安時代には、まず小規模な免税農地からなる免田寄人型荘園が発達し、その後、皇室や摂関家・大寺社など権力者へ寄進する寄進地系荘園が主流を占めた。
鎌倉時代には、守護・地頭による荘園支配権の簒奪(さんだつ)が目立ち始めた。室町時代にも荘園は存続したが、中央貴族・寺社・武士・在地領主などの権利・義務が重層的かつ複雑にからむ状況が生まれる一方、自立的に発生した村落=惣村による自治が出現し、荘園は緩やかに解体への道を歩み始めた。
戦国時代には戦国大名による一円支配が成立、荘園の形骸化はますます進み、最終的に羽柴秀吉の全国的な検地によって荘園は解体した。
>鎌倉時代の荘園[編集]
1180年に発足した初期鎌倉幕府は、御家人の中から荘園・公領の徴税事務や管理・警察権を司る地頭を任命していった。これにより、御家人の在地領主としての地位は、本来の荘園領主である本所ではなく幕府によって保全されることとなった。当然、本所側は反発し、中央政府と幕府の調整の結果、地頭の設置は平氏没官領と謀反人領のみに限定された。しかし、幕府は1185年の源義経謀叛を契機に、諸国の荘園・公領に地頭を任ずる権利を得ることとなった。
1221年の承久の乱の結果、後鳥羽上皇を中心とする朝廷が幕府に敗れる事態となり、上皇方についた貴族・武士の所領はすべて没収された。これらの没収領は畿内・西国を中心に3000箇所にのぼり、御家人たちは恩賞として没収領の地頭に任命された(新補地頭)。これにより東国武士が多数、畿内・西国へ移住し、幕府の勢力が広く全国に及ぶこととなった。
引用元:荘園 (日本) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%9C%92_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)