戊辰戦争における戦闘 「甲州勝沼の戦い」近藤勇 板垣退助「宇都宮城の戦い」土方歳三 伝習隊「船橋の戦い」榎本武揚 撤兵隊「旗巻峠の戦い」四条隆謌(しじょうたかうた)

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二荒山(ふたらさん)神社が消失
旧幕府軍の中心は伝習隊
戊辰戦争における戦闘
新選組の土方歳三が参加
二本松の戦い
宇都宮城の戦い(答)
船橋の戦い
橋本の戦い


戊辰戦争における戦闘
新政府軍の総督は四条隆謌(しじょうたかうた)
仙台藩と相馬中村藩の境で勃発
仙台藩の降伏で終了
旗巻峠の戦い(答)

連想
戊辰戦争における戦闘
新政府軍の指揮官は板垣退助
甲陽鎮撫隊と新政府軍の戦闘
旧幕府軍の指揮官は近藤勇
甲州勝沼の戦い(答)

連想
戊辰戦争における戦闘
旧幕府軍の指揮官は榎本武揚
旧幕府軍の主力は撤兵隊
江戸城無血開城後初の本格的戦闘
船橋の戦い(答)

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 – 明治2年(1868年 – 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。
明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。
>甲州勝沼および野州梁田の戦い
旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとした。しかし東山道を進み信州にあった土佐藩士・板垣退助、薩摩藩士・伊地知正治が率いる新政府軍は、板垣が率いる迅衝隊が甲州へ向かい、甲陽鎮撫隊より先に甲府城に到着し城を接収した。甲陽鎮撫隊は甲府盆地へ兵を進めたが、慶応4年3月6日(同3月29日)、新政府軍と戦い完敗した。近藤勇は偽名を使って潜伏したが、のち新政府に捕縛され処刑された。

>船橋の戦い
慶応4年(1868年)4月11日に行われた江戸城無血開城に従わぬ旧幕臣の一部が千葉方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、閏4月3日(5月24日)に市川・鎌ヶ谷・船橋周辺で両軍は衝突した。この戦いは最初は数に勝る旧幕府軍が有利だったが、戦況は新装備を有する新政府軍へと傾き、新政府側の勝利で幕を閉じた。この戦いは、江戸城無血開城後の南関東地方における最初の本格的な戦闘(上野戦争は同年5月15日)であり、新政府側にとっては旧幕府軍の江戸奪還の挫折と関東諸藩を新政府への恭順に動かした点での意義は大きい。

宇都宮城の戦い
>大鳥圭介は伝習隊、幕府歩兵第七連隊、回天隊、新撰組など総勢2,000人の軍隊を引き連れて下総国市川を日光に向けて出発、途中松戸小金宿から2手に分かれ、香川の駐屯する宇都宮城の挟撃に出立した。これを聞いた宇都宮の香川敬三は、一部部隊を引き連れてこれを小山で迎え撃った。兵数と装備で勝る旧幕府軍はこれに勝利、4月19日には宇都宮で旧幕府軍と新政府軍勢力が激突した。翌日には旧幕府軍が宇都宮城を占領するも、宇都宮から一時退却し東山道総督府軍の援軍と合流、大山巌や伊地知正治が統率する新政府軍に奪い返され、もともと目指していた聖地日光での決戦に備えるべく退却した。
引用元:戊辰戦争 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89

甲州勝沼の戦い(こうしゅうかつぬまのたたかい、慶応4年3月6日(1868年3月29日))は、戊辰戦争における戦闘の一つである。柏尾の戦い、勝沼・柏尾の戦い、甲州戦争、甲州柏尾戦争とも呼ばれる。
>3月6日、山梨郡一町田中村・歌田(山梨市一町田中・歌田)において甲陽鎮撫隊と新政府軍との間で戦闘が始まった。戦況は鎮撫隊側が不利で、新政府軍からの砲撃で大砲は破壊された。のち、近藤は勝沼の柏尾坂へ後退し、抗戦を続ける。会津の援軍が虚報だとわかると、近藤、永倉新八、原田左之助らの説得も空しく、兵は逃亡した。甲陽鎮撫隊は八王子へ退却した後に解散し、江戸へ敗走した。近藤らはその途中土方と合流した。
引用元:甲州勝沼の戦い – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E5%8B%9D%E6%B2%BC%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

宇都宮城の戦い(うつのみやじょうのたたかい)は、戊辰戦争の戦闘の1つ。慶応4年4月19日と23日(旧暦。新暦は1868年5月11日、15日)、現在の栃木県宇都宮市にある下野宇都宮城で2度攻城戦が行われた。
宇都宮藩兵をはじめ野州世直しを鎮圧するために武蔵板橋から宇都宮に派兵された東山道総督府軍を中心とする新政府軍と、下総市川の国府台から次期戦闘地日光廟へ向けて行軍中の伝習隊を中心とする旧幕府軍の間で起きた戦役。この戦いの結果、宇都宮城二ノ丸御殿や三ノ丸の藩士邸宅、二荒山神社をはじめ、城下の建造物の多くが焼失した。
引用元:宇都宮城の戦い – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

市川・船橋戦争(いちかわ・ふなばしせんそう)とは、慶応4年閏4月3日(明治元年・1868年5月24日)に行われた戊辰戦争における戦闘の一つである。船橋の戦いとも呼ばれる。
佐倉街道沿いの下総国市川・船橋を巡って、新政府軍と江原鋳三郎が率いる撒兵隊(さっぺいたい)の分隊を中心とした旧幕府軍との間で行われた。江戸城無血開城後の南関東地方における最初の本格的な戦闘(上野戦争は同年5月15日)であり、新政府側にとっては旧幕府軍の江戸奪還の挫折と関東諸藩を新政府への恭順に動かした点での意義は大きい。
引用元:市川・船橋戦争 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E3%83%BB%E8%88%B9%E6%A9%8B%E6%88%A6%E4%BA%89

旗巻峠の戦い(はたまきとうげのたたかい)は、戊辰戦争時、仙台藩と相馬中村藩の境にある要所を巡って行われた新政府軍と旧幕府軍との一連の戦いの総称である。戦いの結果、旗巻峠と駒ヶ嶺は新政府の制圧するところとなり、仙台藩は戊辰戦争において初めて領内に新政府軍の侵入を許した。仙台藩は数度に渡り奪還のための兵を送るが、いずれも失敗に終わって藩論は降伏へと傾くことになる。
引用元:旗巻峠の戦い – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E5%B7%BB%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84