「三笠」日露戦争で旗艦 東郷平八郎司令長官 「大西瀧治郎」特攻の生みの親 「樋口季一郎」オトポール事件「イスラエル建国の功労者」 「淵田美津雄」トラ・トラ・トラ打電

108NHyuqQN
日露戦争の日本海海戦で
連合艦隊の戦艦を務め
司令長官の東郷平八郎が
乗り込んだ戦艦の名前は?
松濃
三島
信笠
三笠(答)

006hgEIPHVlpu
終戦の翌日に割腹自殺して
亡くなった元海軍中将で
一般に「特攻の生みの親」
として知られるのは?
大西平太郎
小玉源三長
東郷満八介
大西瀧治郎(答)

CIMG1717yIvummNlQmcg
シベリアでナチスに迫害された
多数のユダヤ人の命を救った
ことから、イスラエルで「建国
功労者」とされる日本人は?
淵達順一助
伊田季二介
樋石美之郎
樋口季一郎(答)
ひぐちきいちろう


第二次世界大戦の真珠湾攻撃で「奇襲ニ成功セリ」という意味の暗号文「トラトラトラ」を打電した日本の海軍中佐は?
淵田美津雄(答)
ふちだみつお


日露戦争中に血の日曜日事件などロシア革命の支援工作を画策した日本の外交官は○○元二郎?
あかし(答)
「明石元二郎」

CIMG5478
次の歴代連合艦隊司令長官を
その任に就いたのが
早い順に選びなさい
米内光政 23代
永野修身 24代 
山本五十六 27代

CIMG1573JSuyIAxRXxBq
CIMG1574BcIBpAnnTkRM
日露戦争後の講和条約である
ポーツマス条約で、日本の
全権代表は小村寿太郎でしたが

ロシアの全権代表を務めたのは
◯◯◯◯? ◯を答えなさい
ウィッテ(答)

三笠(みかさ)は、大日本帝国海軍の戦艦で、敷島型戦艦の四番艦。奈良県にある三笠山(若草山)にちなんで命名された。船籍港は京都府舞鶴市の舞鶴港。同型艦に敷島、初瀬、朝日。1904年(明治37年)からの日露戦争では連合艦隊旗艦を務め、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将らが座乗した。現在は防衛省が所管し神奈川県横須賀市の三笠公園に記念艦として保存され、現存している。
>1903年(明治36年)12月28日、三笠は連合艦隊旗艦となった。1904年(明治37年)2月6日から日露戦争に加わり、2月9日からの旅順口攻撃や旅順口閉塞作戦に参加し、8月10日には黄海海戦に参加した。12月28日、呉に入港、修理の後、1905年(明治38年)2月14日呉を出港、江田島・佐世保経由で21日朝鮮半島の鎮海湾に進出した。以後同地を拠点に対馬海峡で訓練を行い、5月27日・28日には日本海海戦でロシア海軍バルチック艦隊と交戦した。この海戦で三笠は113名の死傷者を出した。
引用元:三笠 (戦艦) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%AC%A0_(%E6%88%A6%E8%89%A6)

信濃(しなの)は、日本海軍の航空母艦[1]。建造中の大和型戦艦3番艦(110号艦)を戦局の変化に伴い戦艦から航空母艦に設計変更したものである。艦名は旧国名の信濃国から採られた。1944年(昭和19年)11月下旬、未完成のまま回航中に米潜水艦アーチャーフィッシュの魚雷攻撃により、一度も実戦に投入されることなく沈没した[26]。
1961年にアメリカ海軍最後の通常動力推進空母キティホーク(満載 83,301t)が登場するまでは史上最大の排水量を持つ空母だった[27]。
引用元:信濃 (空母) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%BF%83_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)

松島(まつしま)は日清戦争及び日露戦争で活躍した旧日本海軍の防護巡洋艦である。1892年4月5日、竣工し第一種に編入。1898年3月21日、二等巡洋艦に類別された。
清国が保有していた戦艦「鎮遠」と「定遠」の2隻に対抗する軍艦として建造された、松島型(三景艦)のネームシップ。日清戦争時の連合艦隊旗艦である。同型艦は厳島、橋立。
引用元:松島 (防護巡洋艦) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B3%B6_(%E9%98%B2%E8%AD%B7%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)

大西 瀧治郎(おおにし たきじろう、明治24年(1891年)6月2日 – 昭和20年(1945年)8月16日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校第40期生。神風特別攻撃隊の創始者。終戦時に自決。最終階級は海軍中将。
>特攻の思想[編集]
大西は神風特別攻撃隊の創始者である[56]が、神風特攻隊以外も含む「特攻の生みの親」とする見方については、第一航空艦隊長官になる以前から特攻の支持者であったという認識に支えられているという見方[98]とそれ以前に特攻は中央で研究されているので誤りとする見方がある。神風特攻隊に関しては、中央の研究する特攻とは別物であり、大西から中央に事前報告はあったが、神風特攻隊は大西独自の動きであった[99]。
大西は一航艦参謀長小田原俊彦少将ら幕僚に神風特攻隊を創設する理由を次のように説明した。大西は軍需局の要職にいたためもっとも日本の戦力を知っており、重油、ガソリンは半年も持たず全ての機能が停止する、もう戦争を終わらせるべきである。講和を結ばなければならないが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため一撃レイテで反撃し、7:3の条件で講和を結び満州事変のころまで日本を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば、天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。また、この犠牲の歴史が日本を再興するだろうという[100][101][注 5]。
引用元:大西瀧治郎 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%80%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E

児玉[注 1] 源太郎(こだま げんたろう、嘉永5年閏2月25日(1852年4月14日) – 明治39年(1906年)7月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級位階勲等功級爵位は陸軍大将正二位勲一等功一級子爵。日露戦争において満州軍総参謀長を勤め、勝利に貢献した。
引用元:児玉源太郎 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E

東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1848年1月27日) – 昭和9年(1934年)5月30日)は、日本の幕末から明治時代の薩摩藩士、軍人。階級は元帥海軍大将。栄典は従一位大勲位功一級侯爵。
>日露戦争[編集]

連合艦隊旗艦三笠の艦橋で指揮をとる東郷、1905年
明治37年(1904年)2月10日からの日露戦争では、旗艦「三笠」に座乗してロシア海軍太平洋艦隊(後に第一太平洋艦隊へ改称)の基地である旅順港の攻撃(旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。6月6日には大将に昇進する。
そして明治38年(1905年)5月27日に、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を迎撃する。この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」[5]との一報を大本営に打電した。また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した[6]。東郷は丁字戦法、その後「トウゴウ・ターン」と呼ばれる戦法を使って海戦に勝利を納めた。
引用元:東郷平八郎 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E

樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年8月20日 – 1970年10月11日)は、日本の陸軍軍人。兵庫県淡路島出身。最終階級は陸軍中将。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団師団長等を歴任し、最終役職は第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。
>オトポール事件[編集]
1937年(昭和12年)12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下、3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と、間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。
1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人18名がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連〜満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅(現在のザバイカリスク駅)まで避難していた。しかし、彼らは亡命先に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、足止めされていた。樋口はこの惨状に見かねて、ユダヤ人に対し、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更に膠着状態にあった出国斡旋、満州国内への入植斡旋、上海租界への移動の斡旋等を行った。
引用元:樋口季一郎 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E5%AD%A3%E4%B8%80%E9%83%8E

あかしもとじろう【明石元二郎】

1864‐1919(元治1‐大正8)
明治・大正期の陸軍軍人。福岡藩士明石助九郎の次男。陸軍士官学校(旧6期)をへて,1889年陸軍大学校卒業。日清戦争に近衛師団参謀として従軍。参謀本部員として,フランスやロシアの公使館付となり,日露戦争中にはストックホルムにあってロシア国内の諜報活動,攪乱工作にあたった。1908年韓国駐劄(ちゆうさつ)軍参謀長,憲兵隊長,10年韓国駐劄憲兵隊司令官として朝鮮の義兵闘争鎮圧を指揮し,併合後の朝鮮支配の基礎となった憲兵警察制度の原型をつくった。
引用元:明石元二郎(あかし もとじろう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%83%E4%BA%8C%E9%83%8E-14433

伊達順之助 だて-じゅんのすけ

1892-1948 大正-昭和時代前期の大陸浪人。
明治25年1月6日生まれ。伊達宗敦(むねあつ)の3男。満州(中国東北部)にわたり満蒙独立軍に参加,のち張作霖(ちょう-さくりん)の軍事顧問となる。満州事変の際,山東自治連軍を組織して満州国軍にくわわる。檀一雄の小説「夕日と拳銃」のモデル。昭和23年9月9日戦犯として上海で処刑された。57歳。東京出身。中国名は張宗援。
引用元:伊達順之助(だて じゅんのすけ)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E9%81%94%E9%A0%86%E4%B9%8B%E5%8A%A9-1089683

淵田美津雄 ふちだ-みつお

1902-1976 昭和時代の軍人。
明治35年12月3日生まれ。昭和16年12月8日空母赤城の飛行総隊長として真珠湾攻撃を指揮した。19年連合艦隊参謀,のち海軍総隊航空参謀を兼任。海軍大佐。昭和51年5月30日死去。73歳。奈良県出身。海軍大学校卒。
引用元:淵田美津雄(ふちだ みつお)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B7%B5%E7%94%B0%E7%BE%8E%E6%B4%A5%E9%9B%84-1106728

連合艦隊司令長官(れんごうかんたいしれいちょうかん、旧字表記:聯合艦隊司令長官、英語名:Commander-in-Chief of the Combined Fleet)は、日本海軍の外戦部隊である連合艦隊の指揮官。略称はGF長官。
>歴代の連合艦隊司令長官[編集]
伊東祐亨中将(1894年(明治27年)7月19日 – 1895年5月11日)
有地品之允中将(1895年(明治28年)5月11日 – 1895年11月16日)
東郷平八郎中将(1903年(明治36年)12月28日 – 1905年6月14日)

米内光政中将(1936年(昭和11年)12月1日 – 1937年2月2日)
永野修身大将(1937年(昭和12年)2月2日 – 1937年12月1日)
吉田善吾中将(1937年(昭和12年)12月1日 – 1939年8月30日)
山本五十六中将(1939年(昭和14年)8月30日 – 1941年8月11日)

引用元:連合艦隊司令長官 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%90%88%E8%89%A6%E9%9A%8A%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%95%B7%E5%AE%98