「両統迭立」大覚寺統「亀山天皇」「後宇多天皇」持明院統「後深草天皇」「伏見天皇」 「正平一統」1351一時期南朝に統一

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次の鎌倉時代後期の天皇を
皇室の系統ごとに
グループ分けしなさい

大覚寺統持明院統
花園天皇
後宇多天皇
亀山天皇

次回出題時まで覚えていられるかわかりませんが、大覚寺統が廃止されたイメージ「大亀撃たれる」で主要選択肢だけでも。大覚寺統、亀山天皇、後宇多天皇
また、正平一統と両統迭立の区別も復習しましょう。

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大覚寺統持明院統
伏見天皇
後深草天皇
後宇多天皇
後醍醐天皇
光厳天皇

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南北朝時代の1351年に
一時期だけ南北朝が南朝に
統一されたことを何という?
迭統両合南
平一正朝立
正平一統(答)
しょうへいいっとう


鎌倉時代後期に大覚寺統と
持明院統から交互に皇位に
ついたことを何という?
両統迭立(答)
りょうとうてつりつ

大覚寺統
だいかくじとう

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位の継承権と所領の相続をめぐって争った2つの皇統の一つ。亀山,後宇多天皇の流れで,後深草,伏見天皇の持明院統と対抗。後宇多天皇が上皇となってから京都の北西郊の大覚寺に住んだのでこの名がある。
引用元:大覚寺統(だいかくじとう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E8%A6%9A%E5%AF%BA%E7%B5%B1-90885

持明院統【じみょういんとう】

鎌倉時代,後嵯峨法皇の死後,皇統は二つに分裂して対立抗争したが,そのうち後深草(ごふかくさ)天皇の系統を持明院統という。亀山天皇の大覚寺統に対する。後深草天皇の子伏見天皇が譲位後に京都持明院に住んだのでこの名がある。
引用元:持明院統(じみょういんとう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%8C%81%E6%98%8E%E9%99%A2%E7%B5%B1-75228#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88

大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。第88代後嵯峨天皇の子である第90代亀山天皇の子孫である。亀山・後宇多両天皇が京都の外れの嵯峨にあった大覚寺の再興に尽力し、出家後はここに住んで院政を行った事からこの名称が付けられた。
>院政を敷いた後嵯峨上皇が、自分の皇子のうち後深草天皇の子孫ではなく弟の亀山天皇の子孫が皇位を継承するよう遺言して崩御したために、後深草と亀山の間で対立が起こり、鎌倉幕府により、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承(両統迭立)し、院政を行うよう裁定された。
>大覚寺統の天皇[編集]
亀山天皇(90代)
後宇多天皇(91代)
後二条天皇(94代)
後醍醐天皇(96代、南朝初代)
後村上天皇(97代、南朝2代)
長慶天皇(98代、南朝3代)
後亀山天皇(99代、南朝4代)
大覚寺統の天皇[編集]
亀山天皇(90代)
後宇多天皇(91代)
後二条天皇(94代)
後醍醐天皇(96代、南朝初代)
後村上天皇(97代、南朝2代)
長慶天皇(98代、南朝3代)
後亀山天皇(99代、南朝4代)

持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の子である第89代後深草天皇の子孫である。
>後、後小松天皇の代に明徳の和約によって皇統は持明院統に統一されることとなる。だが、その系統は次の称光天皇の代に断絶し、同じ持明院統に属する伏見宮から皇位継承者が迎えられ、現在の皇室へと続くことになった。
>持明院統の天皇[編集]
後深草天皇(89代)
伏見天皇(92代)
後伏見天皇(93代)
花園天皇(95代)
光厳天皇(北朝1代)
光明天皇(北朝2代)
崇光天皇(北朝3代)
後光厳天皇(北朝4代)
後円融天皇(北朝5代)
後小松天皇(100代・北朝6代)
称光天皇(101代)
引用元:持明院統 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E6%98%8E%E9%99%A2%E7%B5%B1

□持明院統と大覚寺統 ◇B
[ゴロ]郷さんが/幸福かつ長寿命がボクの/課題なんや
(後嵯峨上皇)(後深草天皇・長講堂領・持明院統・北朝)(亀山天皇・大覚寺統・南朝・八条院領)

[句意]郷さんが、「不幸で長生きしてもつまらない。幸福でしかも長生きがボクの課題なんや」と言った、という句。紛らわしい正誤問題では、一方だけ完璧で良いので、まず「課題なんや」を覚えることががオススメ。
引用元:持明院統と大覚寺統の覚え方 – 東海林直人のゴロテマ日本史 http://blog.goo.ne.jp/thropus2/e/e390d4061bbdd410c94d1984f62b84d1

しょうへいいっとう【正平一統】

南北朝期の正平年間(1346‐70)に一時的に南北朝が合体したこと。足利尊氏は観応の擾乱(じようらん)に際し,弟直義追討のため1351年(正平6∥観応2)から翌年にかけて一時的に南朝と和議を結び,そのため北朝の天皇が一時廃位され,年号も南朝年号〈正平〉に統一された。幕府・北朝と南朝との対立抗争のさなか,直義と尊氏の執事高師直との対立に端を発した観応の擾乱によって天下は三分された形となったが,尊氏は背後を固めて東国の直義追討にあたるため1351年10月南朝と和議を結び,翌月には北朝年号〈観応〉を廃し南朝年号〈正平〉を用いて恭順の意を表し,北朝の崇光天皇,皇太子直仁親王は廃された。
引用元:正平一統(しょうへいいっとう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E5%B9%B3%E4%B8%80%E7%B5%B1-1175148

両統迭立
りょうとうてつりつ

鎌倉時代後半,後嵯峨天皇の嫡子後深草天皇の子孫 (→持明院統 ) と次子亀山天皇の子孫 (→大覚寺統 ) の2系統が並び立ち,交互に皇位についたこと。後嵯峨,後深草のあと,亀山とその子後宇多が相次いで皇位についた。
引用元:両統迭立(りょうとうてつりつ)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%A1%E7%B5%B1%E8%BF%AD%E7%AB%8B-150055