其角「夕涼み」よくぞ男に生まれける

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江戸時代の俳人、榎本其角
の有名な句は「◯◯◯
よくぞ男に生まれける」?
ひらがな5文字で答えなさい
ゆうすずみ(答)
「夕涼み よくぞ男に 生まれける」
42%

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次の文字列を組み合わせて
江戸時代に「木門の十哲」と
呼ばれた木下順庵の弟子の
名前にしなさい
服部───寛斎
祇園───南海
向井───三省

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蕉門十哲の一人に加えられる
こともある江戸時代前期の俳人
服部土芳
はっとりとほう(答)


芭蕉が「東三十三国の俳諧奉行」と呼んだ、「蕉門十哲」の一人
杉山杉風
すぎやまさんぷう(答)

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松尾芭蕉の『おくのほそ道』の
出発地となった場所です
採荼庵
さいとあん

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次の文字列を組み合わせて
松尾芭蕉が詠んだ俳句にしなさい
春雨や───双葉に萌ゆる 茄子種
春なれや───名もなき山の 薄霞
春風に───吹き出し笑う 花もがな
引用元:「名月や北国日和定めなき」 「採荼庵」さいとあん「一家に遊女も寝たり萩と月」「荒海や佐渡によこたふ天の河」 | わかればいいのに I wish I knew http://seethefun.net/%e6%96%87%e7%b3%bb%e5%ad%a6%e5%95%8f/2898/

宝井 其角(たからい きかく、寛文元年7月17日(1661年8月11日) – 宝永4年2月30日(1707年4月2日。一説には2月29日(4月1日))は、江戸時代前期の俳諧師。
本名は竹下侃憲(たけした ただのり)。別号は螺舎(らしゃ)、狂雷堂(きょうらいどう)、晋子(しんし)、宝普斎(ほうしんさい)など。
>江戸堀江町で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれた。延宝年間(1673年 – 1681年)の初めの頃、父親の紹介で松尾芭蕉の門に入り俳諧を学ぶ。はじめ、母方の榎本姓を名乗っていたが、のち自ら宝井と改める。
蕉門十哲の第一の門弟と言われている。芭蕉の没後は日本橋茅場町に江戸座を開き、江戸俳諧では一番の勢力となる。なお、隣接して、荻生徂徠が起居、私塾蘐園塾を開いており、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句がある。
引用元:宝井其角 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E4%BA%95%E5%85%B6%E8%A7%92

デジタル大辞泉の解説
もくもん‐の‐じってつ【木門の十哲】

木下順庵門下の10人の弟子。新井白石・室鳩巣(むろきゅうそう)・雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)・祇園南海(ぎおんなんかい)・榊原篁洲(さかきばらこうしゅう)・南部南山・松浦霞沼・三宅観瀾(みやけかんらん)・服部寛斎・向井滄洲。木門十哲。
引用元:木門の十哲(モクモンノジッテツ)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E9%96%80%E3%81%AE%E5%8D%81%E5%93%B2-645413

木下 順庵(きのした じゅんあん、元和7年6月4日(1621年7月22日) – 元禄11年12月23日(1699年1月23日))は、江戸時代前期の儒学者。名は貞幹、字は直夫、通称は平之允、号は順庵・錦里・敏慎斎・薔薇洞。私諡を恭靖と言う。
>天和2年(1682年)、江戸幕府の儒官となり、5代将軍徳川綱吉の侍講をつとめた。その間、『武徳大成記』をはじめとした幕府の編纂事業にたずさわり、林鳳岡や林門の儒家たちとも交流している。朱子学に基本を置くが、古学にも傾倒した。
>木門十哲
新井白石:将軍徳川家宣に仕え、幕政に参与した。
室鳩巣:加賀前田家に仕え、のち将軍徳川吉宗の侍講となる。
雨森芳洲:対馬藩に仕えて文教・外交に活躍した。
祇園南海:紀伊藩の儒者。
榊原篁洲:紀伊藩の儒者。
南部南山(なんぶなんざん):富山藩に仕えた。
松浦霞沼(まつうらかしょう):雨森芳洲とともに対馬藩に仕えた。
三宅観瀾:徳川光圀に招かれて、「大日本史」の編纂に協力した。
服部寛斎(はっとりかんさい):甲斐府中藩主徳川綱豊(のちの将軍家宣)の侍講となる。
向井滄洲(むかいそうしゅう、向井三省とも)
引用元:木下順庵 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E9%A0%86%E5%BA%B5

服部 土芳(はっとり とほう、明暦3年(1657年) – 享保15年1月18日(1730年3月6日))は江戸時代前期の俳人である。松尾芭蕉と同郷の後輩で、蕉門十哲の1人に加えられることもある。芭蕉晩年の俳論を整理した『三冊子』などの著書を残した。
引用元:服部土芳 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%9C%9F%E8%8A%B3

デジタル大辞泉の解説
はっとり‐とほう〔‐トハウ〕【服部土芳】

[1657~1730]江戸前・中期の俳人。伊賀上野の人。名は保英。通称、半左衛門。別号、蓑虫庵(みのむしあん)など。もと藤堂藩士。松尾芭蕉の弟子で、伊賀蕉門の中心人物。俳論書「三冊子(さんぞうし)」を編んだほか、編著「蓑虫庵集」「横日記」など。
引用元:服部土芳(はっとりとほう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%9C%9F%E8%8A%B3-115207

蕉門十哲(しょうもんじってつ)は、松尾芭蕉の弟子の中で、特に優れた高弟10人を指していう。蕉門の十哲とも。
蕉門十哲とされるのは以下の10人である。
>宝井其角(たからい きかく)
寛文元年(1661年) – 宝永4年(1707年) 蕉門第一の高弟。江戸座を開く。
>服部嵐雪(はっとり らんせつ)
承応3年(1654年) – 宝永4年(1707年) 其角とならんで蕉門の双璧をなす。
>森川許六(もりかわ きょりく)
明暦2年(1656年) – 正徳5年(1715年) 晩年になって入門。画の名人で芭蕉に画を教える。
>向井去来(むかい きょらい)
慶安4年(1651年) – 宝永元年(1704年) 京都嵯峨野に別荘「落柿舎」を所有。芭蕉より野沢凡兆とともに「猿蓑」の編者に抜擢される。
>各務支考(かがみ しこう)
寛文5年(1665年) – 享保16年(1731年)
>内藤丈草(ないとう じょうそう)
寛文2年(1662年) – 宝永元年(1704年)
>杉山杉風(すぎやま さんぷう)
正保4年(1647年) – 享保17年(1732年) 蕉門の代表的人物で芭蕉の経済的支援者。
>立花北枝(たちばな ほくし)
生年不詳 – 享保3年(1718年) 「奥の細道」の道中の芭蕉と出会い入門。
>志太野坡(しだ やば)
寛文2年(1662年) – 元文5年(1740年) 芭蕉の遺書を代筆。
>越智越人(おち えつじん)
明暦2年(1656年) – 没年不詳  尾張蕉門の門人。「更科紀行」の旅に同行。
引用元:蕉門十哲 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%89%E9%96%80%E5%8D%81%E5%93%B2