大島蓼太(おおしまりょうた) 「世の中は三日見ぬ間に桜かな」

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「世の中は三日見ぬ間に桜かな」
という有名な俳句の作者は?
池西言水 いけにしごんすい
大島蓼太(答)おおしまりょうた
上島鬼貫 うえじまおにつら
炭太祇 たんたいぎ

デジタル大辞泉の解説
世(よ)の中(なか)は三日見ぬ間(ま)の桜かな【世の中は三日見ぬ間の桜かな】

《大島蓼太の俳句から》世の中は、3日見ないうちに散ってしまう桜の花のようなものだ。世の中の移り変わりが激しいことのたとえ。「世の中は三日見ぬ間に桜かな」とも。
世の中は三日見ぬ間の桜かな(ヨノナカハミッカミヌマノサクラカナ)とは – コトバンク

ともし火を見れば風あり夜の雪

苔よりも雪の花さけ塚の上

         大島蓼太

 しんしんと雪が降り続いている。一面、雪景色に変わった。夜更けて障子を開け、庭でも眺めたのだろうか。
 部屋の隅では、明け方まで灯をともす有明行灯がほの明るい。その灯が時折、ゆらりゆらり揺れている。その揺らめきに、かすかな風の気配を感じ取ったのだ。

 江戸中期の俳人大島蓼太には、雪を詠んだ句が幾つかある。中でもこの句の評価が高い。微細な描写に詩心が宿っている。
 広く知られた名句というのではない。蓼太の敬愛する松尾芭蕉や共に天明の俳諧を支えた与謝蕪村ほど、文学史に大きな位置を占める俳人でもない。
>世の中は三日見ぬ間に桜かな

 3日ほど外出しないでいたら、もう世の中は桜の季節で花見気分になっている―。本来の意味だけれども、「見ぬ間に」が「見ぬ間の」と言いならわされ、時の移り変わりの速いことに例えることわざのように使われる。
 平明な作風で江戸俳壇を率いた。やや通俗的なきらいを隠せないにしても、だからかえって「三日見ぬ間の桜」といった今日にも通ずる名言を生んでいる。
73 大島蓼太 ~「三日見ぬ間の桜」で知られ – 週刊長野記事アーカイブ

大島 蓼太(おおしま りょうた、享保3年(1718年) – 天明7年9月7日(1787年10月17日))は、江戸時代の俳人。本姓は吉川。諱は陽喬、通称は平助、雅号は雪中庵、里席、宜来、老鳥、豊来、空摩など多数。与謝蕪村、加舎白雄などと共に中興五傑の一人。
>元文5年(1740年)雪中庵二世桜井吏登の門人となり俳諧を学ぶ。松尾芭蕉追慕の念から、寛保2年(1742年)『奥の細道』を吟行するため奥羽行脚に旅立ち、その翌年、郷里の飯島に立ち寄り、与田切川の河畔に現地の門人らと「雪塚」を建立した。
延享4年(1747年)雪中庵を継承し三世となる。芭蕉への回帰を唱えてその研究と顕彰に努め、三千余人の門人を有した。また江戸座宗匠の旧態を批判し、一大勢力を築いた。
大島蓼太 – Wikipedia

池西 言水(いけにし ごんすい、慶安3年(1650年) – 享保7年9月24日(1722年11月2日))は江戸時代初期の松尾芭蕉と同時代の俳人である。
奈良に生まれる。名は則好。通称は八郎兵衛、曽祖父の千貫屋久兵衛は奈良大年寄を務めた家系で父も俳諧を嗜んだと伝えられる。別号は兼志、紫藤軒、洛下童、鳳下堂。16歳で法体して俳諧に専念したと伝えられる。江戸に出た年代は不詳であるが延宝年間(1670年代後半)に大名俳人、内藤風虎のサロンで頭角を現した。
>代表句[編集]
菜の花や淀も桂も忘れ水
高根より礫うち見ん夏の湖
池西言水 – Wikipedia

池西言水

高根より礫うち見ん夏の海

言水(ごんすい)は江戸期の人。前書に「比叡にて」とあるから、この海は琵琶湖である。陽光にキラキラと輝く湖面が目に見えるようだ。石を投げても届くわけはないのだが、人は高いところに登ると、どういうわけか何か投げたくなる。子供っぽいといえば子供っぽいけれど、自然のなかで解放された気分とよくマッチしている。もっとも、今では危険なので、かなりの山奥でもこんな稚気も発揮できなくなった。私が子供だったころは、遠足で山に登ると、必ず礫(つぶて)の打ち合いっこになった。遠投競争だ。憧れのプロ野球投手の投球フォームを真似て、飽きもせずに放りつづけたものである。そして、川や湖に出れば石での「水切り」。西鉄・武末投手のサブマリン投法で投げるのだ。ところで、この元禄の俳人は、このときどんなフォームで石を投げたのだろうか。句の中身とは無関係だが、私としてはとても気になってしまうのである。『前後園』(元禄二年・1689)所収。(清水哲男)
『増殖する俳句歳時記』検索: 池西言水

上島 鬼貫(うえじま おにつら、万治4年4月4日(1661年5月2日) – 元文3年8月2日(1738年9月15日))は江戸時代中期の俳諧師。上島の読みは出自からは「かみじま」であるが、通常「うえしま」または「うえじま」と呼称される。字は与惣兵衛、利左衛門。武士として出仕していた時代は藤原宗邇(ふじわら むねちか)と名乗った。晩年は平泉惣右衛門と名乗る。点也・仏兄(さとえ)・即翁・槿花翁(きんかおう)・自休庵・馬楽堂の別号がある。
上島鬼貫 – Wikipedia

「行水(ぎょうずい)の 捨てどころなし 虫の声」(上島鬼貫)

(訳: 初秋の暑さを逃れ、体を清めるために使った水もここには捨てる場所 がない。沢山の虫達が心地良い音楽を奏でていて、鳴き声を止めてしまうにはあまりにも惜しいから。)

夜になり虫の声を聴くと、秋も深まってきたのだなとしみじみ感じます。俳句 で「虫」と言えば、秋に草むらで鳴く虫たちのことを指し、秋の季語となります。かの有名な、童謡・唱歌「虫のこえ」(作詞・作曲 文部省唱歌)にも、チンチロチンと鳴く松虫やリンリンと鳴く鈴虫をはじめ、多くの虫たちの愛らしい音色が登場します。みなさまは秋の虫と言えばどの虫を想像されるでしょうか。
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炭 太祇(たん たいぎ、宝永6年(1709年) – 明和8年8月9日(1771年9月17日))は、江戸時代中期の俳人。水語・三亭・不夜庵などと号した。出身は江戸。
江戸においては水国・慶紀逸に江戸座の俳諧を学ぶとともに、劇界や遊里の人々とも交流を持った[1]。宝暦年間(1751年-1764年)には奥州・京都・九州などを巡った後、京都島原の遊郭内に不夜庵を営んだ[2]。支持者である桔梗屋呑獅のほか、与謝蕪村とも交流があったという。また、太祇は島原の女性たちに俳諧や手習いの教授を行っていた[3]。
炭太祇 – Wikipedia

目を明けて聞て居る也四方の春  太祗

読み
めをあけて きいているなり よものはる

季節は「四方の春」で新年。

炭 太祗(たん・たいぎ)(1709~1771)の俳諧の発句です。
>元日の朝目覚めてみれば、東西南北前後左右上下は新春の神々しい静寂に満ち、寝床の中で耳を澄ましてじっとしていれば、まるでその静けさを聞いているようだ、ということでしょうね。

およそ正月(新年を祝う期間という意味での)というのは、今も昔も生産活動や経済活動は停止するでしょうから、独特の静けさに包まれています。

「聞て居る也四方の春」とは、そういう感じでしょうか。

言うまでもなく、「四方の春」には年の改まった神々しいというか、清々しい感じも篭もっているでしょう。

それを「聞ている」つまり春を聞いている、と言ったところに、この句の良さがあるように思いました。
四方の春|俳諧伝授