幕末の三筆の一人「貫名菘翁」ぬきなすうおう・私塾「須静堂」  三筆(平安初期)「筆が向上差が早く」「嵯峨天皇」「橘逸勢」「空海」 三蹟(平安中期)「サリーちゃんのパパが豆腐を買うぜい」「藤原佐理」「小野道風」「藤原行成」 昭和の三筆の一人「手島右卿」てしまゆうけい

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江戸時代後期の儒学者
京都に私塾・須静堂を開く
書家、画家としても有名
幕末の三筆のひとり
会沢正志斎
貫名菘翁(答)
池内大学
横井小楠
46%

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次のうち
平安時代に「三筆」と
歌われた人物を
全て選びなさい
空海(答)
嵯峨天皇(答)
藤原行成
橘逸勢(答)
「筆が向上差が早く」

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次のうち
書道を得意とした
「三蹟」に含まれる人を
全て選びなさい
藤原佐理(答)ふじわらのすけまさ
小野道風(答)おののとうふう
空海 「三筆」
藤原行成(答)ふじわらのゆきなり
「サリーちゃんのパパが豆腐を買うぜい」

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次のうち、書道を得意とした
「三筆」に含まれないのは?
橘逸勢
空海
嵯峨天皇
小野道風(答)

「筆が向上 差が早く。」
三筆 弘仁・貞観文化 嵯峨天皇 橘逸勢 空海
三筆の覚え方 – ベック式!暗記法ブログ TOP


次のうち江戸時代に「寛永の三筆」と謳われた人物を全て選びなさい
本阿弥光悦(答) ほんあみこうえつ
近衛信尹(答) このえのぶただ
松花堂昭乗(答) しょうかどうしょうじょう

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市河米庵、巻菱湖と共に
「幕末の三筆」と呼ばれました
貫名菘翁
ぬきなすうおう(答)


市河米庵、貫名菘翁と共に「幕末の三筆」と呼ばれました
巻菱湖
まきりょうこ(答)

エフェクト
巻菱湖、貫名菘翁と共に「幕末の三筆」と呼ばれました
市河米庵
いちかわべいあん(答)

タイピング
書に優れ「明治の三筆」と呼ばれた人物をフルネームで1人答えなさい
くさかべめいかく(答) 日下部鳴鶴
なかばやしごちく(答) 中林梧竹
いわやいちろく(答) 巖谷一六

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プロサッカー選手の岡野雅行
を孫に持つ書道家です
手島右卿
てしまゆうけい(答)
「西川寧」にしかわやすし
「日比野五鳳」ひびのごほう

貫名菘翁

江戸後期の文人書画の巨匠・儒者。徳島生。姓は吉井、名は苞、字を君茂・子善、通称は泰次郎、別号に海屋・方竹山人・須静山人等。書は西宣行に師事して宋法を学ぶ。近世第一の能書家と称され、須静塾を開く。晩年には下鴨神社に奉仕し、諸国を遊歴した。文久3年(1863)歿、86才。
引用元:貫名菘翁(ぬきな すうおう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%B2%AB%E5%90%8D%E8%8F%98%E7%BF%81-17502

会沢正志斎【あいざわせいしさい】

江戸末期の水戸学を代表する学者。常陸(ひたち)水戸藩士。名は安(やすし),字は伯民。正志斎は号。藤田幽谷に学び,その子藤田東湖と徳川斉昭の藩主擁立を策した。のち藩政に参画,藩校弘道館の創設に尽力し,初代総教(教授頭取)となる。(1782-1863)
引用元:会沢正志斎(あいざわ せいしさい)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BC%9A%E6%B2%A2%E6%AD%A3%E5%BF%97%E6%96%8E-14283

池内大学 いけうち-だいがく

1814-1863 江戸時代後期の儒者。
文化11年10月22日生まれ。京都で医業をいとなみ,中川宮朝彦親王や公家の侍読となる。尊攘(そんじょう)論を主張し,三条実万(さねつむ)と水戸藩とを仲介。将軍継嗣問題では一橋慶喜(よしのぶ)を支持する。安政の大獄で自首し,これを裏切りとみた尊攘派に文久3年1月23日暗殺された。50歳。名は奉時。通称は別に退(泰)蔵。号は陶所。
引用元:池内大学(いけうち だいがく)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B1%A0%E5%86%85%E5%A4%A7%E5%AD%A6-1052398

横井小楠 よこい-しょうなん

1809-1869 江戸時代後期の儒者。
文化6年8月13日生まれ。肥後熊本藩士。天保(てんぽう)10年江戸に遊学。帰藩後は家塾をひらき,実学派の中心となる。安政5年福井藩主松平慶永(よしなが)の藩政顧問となり,藩の富国策を指導。新政府のもと,京都で参与となるが,明治2年1月5日暗殺された。61歳。名は時存(ときあり)。字(あざな)は子操。通称は平四郎。別号に沼山。著作に「国是三論」。
【格言など】人必死の地に入れば,心必ず決す
引用元:横井小楠(よこい しょうなん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0-22088

三跡(さんせき)は、書道の大御所三人のこと。三筆は各時代にいるが、この三跡ほどの影響を後世まで与えた人物はいない。字は三蹟とも表記する。また、入木道の三蹟(じゅぼくどうのさんせき)とも言う。
>小野道風(おののみちかぜ「トウフウ」)- 小野の「野」をとって、野跡(やせき)と呼ばれる。
藤原佐理(ふじわらのすけまさ「サリ」)- 佐理の「佐」をとって、佐跡(させき)と呼ばれる。
藤原行成(ふじわらのゆきなり「コウゼイ」) – 権大納言であったので、権跡(ごんせき)と呼ばれる。
三蹟の覚え方としては、有職読みを使った「サリー(サリ)ちゃんのパパが豆腐(トウフウ)を買うぜい(コウゼイ)」が有名である。
三跡 – Wikipedia

さんせき【三蹟】

平安中期の能書家,小野道風,藤原佐理(すけまさ),藤原行成(ゆきなり)の3人,またその書をさす。中国や日本では名数が好まれたが,書道のうえでも平安初期の嵯峨天皇,橘逸勢(はやなり),空海が〈三筆〉と称され,〈三蹟〉はこれに対応する。三蹟の語は厳密には野蹟(道風),佐蹟(佐理),権蹟(行成),すなわち3人の筆蹟をいう言葉である。この3人を組み合わせた起源については諸説あるが,藤原道長邸に後一条天皇が行幸したとき,道長がこの3人の書蹟を合わせて献上したことによると近衛家熙(いえひろ)が述べている(《槐記》)。
三蹟(サンセキ)とは – コトバンク

貫名菘翁(ぬきな すうおう、安永7年3月(1778年) – 文久3年5月6日(1863年6月21日))は江戸時代後期の儒学者、書家、文人画家。とりわけ書は幕末の三筆として称揚される。
姓は吉井、後に家祖の旧姓貫名に復する。名は直知・直友・苞(しげる)。字は君茂(くんも)・子善。通称は政三郎、のちに省吾さらに泰次郎と改める。号は海仙・林屋・海客・海屋・海屋生・海叟・摘菘人・摘菘翁・菘翁・鴨干漁夫など多数。室号に勝春園・方竹園・須静堂・須静書堂・三緘堂。笑青園などと名のっている。海屋・菘翁が一般に知られている。
貫名菘翁 – Wikipedia

貫名菘翁の特色
 姓は吉井であったが貫名に改めた。名は苞、字は君茂。号は海屋、菘翁、須静堂、三緘堂。出生は阿波国(徳島県)。家は弓術の指南役であったが、体質に合わないことを理由に文事に専念した。巻菱湖・市河米庵とともに幕末の三筆と称される。
>生存中は画名のほうが高かったが、明治に入って日下部鳴鶴によって見出されて評価が高まった。
貫名菘翁 書道の基礎知識 偉人編

手島 右卿(てしま ゆうけい、1901年(明治34年)11月3日 – 1987年(昭和62年)3月27日)は、日本の書家、文化功労者。高知県出身。本名・南海巍(なみき)。昭和の三筆の一人。ニックネームは、「ライオンの右卿」。
妻は仮名書家の手島小華、長弟と次弟は、いずれも書家の高松慕真と南不乗。宗教家の岡田晃弥は子。元プロサッカー選手でガイナーレ鳥取GMの岡野雅行は孫。
手島右卿 – Wikipedia

手島右卿は1901年11月3日、高知県安芸市に誕生。すでに幼少の頃より書に類まれな才能を持っておりました。 川谷尚亭、比田井天来に師事し、中国、日本の書の古典をものにすべく、血の滲むような鍛錬を徹底的に積み重ねました。
更に、古典の研鑽による伝統的な書法を体得するのみに留まらず、どこまでも現代に通じる書の新たな世界を探求したのでした。右卿は、漢詩などを題材とする旧来の書作品に対し、一字又は二字の漢字で表現する「少字数書(しょうじすうしょ)」という新たな分野を編み出し、更にそれを「象書(しょうしょ)」(文字の意味内容を象(かたち)として表現する様式美)と名付けました。
手島右卿記念室 光記念館|HIKARU MUSEUM