奈良県明日香村「石舞台古墳」蘇我馬子の墓と比定 

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奈良県明日香村にある
この古墳は誰の墓とされている?
小野妹子
聖徳太子
蘇我馬子(答)
推古天皇

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山田寺、薬師寺といえば
何文化の代表的建築物?
国風文化
白鳳文化(答)
飛鳥文化
天平文化

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次のうち、大化の改新で
亡くなった人物を
全て選びなさい
蘇我馬子
蘇我入鹿(答)
蘇我稲目
蘇我蝦夷(答)

並べかえ
大化の改新の後に右大臣となった蘇我馬子の孫は?
蘇我倉山田石川麻呂(答)
そがのくらのやまだのいしかわのまろ

○×
昔の位の制度「冠位十二階」のあとには「冠位十三階」も作られた
○(答)

蘇我馬子 そがの-うまこ

?-626 6-7世紀前半の豪族。
蘇我稲目の子。敏達(びだつ)天皇のときに大臣(おおおみ)となる。仏教興隆をはかり,用明天皇2年(587)反対派の物部守屋(もののべの-もりや)と穴穂部(あなほべの)皇子をほろぼし,崇峻(すしゅん)天皇をたてる。崇峻天皇5年(592)東漢駒(やまとのあやの-こま)に崇峻天皇を暗殺させ,姪(めい)にあたる推古天皇を即位させ,厩戸(うまやどの)皇子(聖徳太子)を皇太子とした。法興寺(飛鳥(あすか)寺)を造営。聖徳太子と協調して政治をおこない,「天皇記」「国記」を編修させた。推古天皇34年5月20日死去。墓所は奈良県明日香村の桃原墓。通称は嶋(島)大臣。
蘇我馬子(そがのうまこ)とは – コトバンク

石舞台古墳は、飛鳥歴史公園内石舞台周辺地区の中央に位置するわが国最大級の方墳です。
30数個の岩の総重量は約2300トン、特に天井石は約77トンとかなりの重量で、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがわれます。
ここでは、石舞台古墳についてより詳しく学んでいきましょう。
>天井席の上面が広く平らで、まるで舞台のように見えるその形状から古くから「石舞台」と呼ばれています。
被葬者は明らかではありませんが、7世紀初頭の権力者で、大化の改新で滅ぼされた蘇我入鹿の祖父でもある蘇我馬子の墓ではないかといわれています。
1933年(昭和8)~35年(昭和10)の発掘調査で方形の墳丘、堀、外堀が存在すること、6世紀代の小古墳を壊して築造されていたことなどが確認されており、その上で築造は7世紀初め頃と推定されています。
国営飛鳥歴史公園

石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。国の特別史跡に指定されている。
元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出している。埋葬者としては蘇我馬子が有力視されている。
石舞台古墳 – Wikipedia

時代区分は教科書や本によって多少は違いますが飛鳥・白鳳・天平は文化によって分けられた時代です。
飛鳥文化→壬申の乱まで代表なのは飛鳥寺や法隆寺など
白鳳文化→平城京遷都まで代表なのは薬師寺
天平文化→代表なのは奈良の大仏など聖武天皇の時代
>白鳳は天武・持統朝を指します。律令が整い国家が始動した時代。
天平は聖武朝を指し、平城京遷都。遣唐使により大陸の文化が伝わり仏教が花開いた時期です。
きっかけは国家が形成され安定してきて、大陸との交流や仏教文化が発達してきて生れました。
白鳳・天平は日本の文化での区分なので天平時代とは言いません。
奈良時代の飛鳥、白鳳、天平時代は何を契機に分けられてたのでしたっけ。 – Yahoo!知恵袋

七色十三階冠(ななしきじゅうさんかいかん)は、大化(647年)に制定された日本の冠位である。名称は『日本書紀』にある「制七色一十三階之冠」による。冠位十二階にあわせて冠位十三階、制定年をとって大化三年の冠位など様々に呼ばれる。また、それぞれ「制」をつけて七色十三階冠制、冠位十三階制、大化三年の冠位制などともいう。以前の冠位十二階制を改め、648年から施行されたが、649年に冠位十九階制に再改正された。
>紫冠の設置[編集]
改正の最大のポイントは、十二階の上に、大織から大紫までの新しい冠位を置いたことである。以前の十二階制は当時権力を握っていた蘇我氏の本宗家、蘇我蝦夷・蘇我入鹿を含んでいなかったと考えられている。蝦夷は子の入鹿に紫冠を授けており、天皇から冠を授かった他の臣下とは別格であった。乙巳の変で二人を倒した後、この七色十三階冠制によって、臣下がすべて天皇から冠位を授かってその地位を認められることになった[3]。新設の大紫・小紫が、蘇我氏本宗が用いた紫冠を引き継ぐ冠位である。しかしこの改正でも皇族は冠位を授からなかった。
七色十三階冠 – Wikipedia