『日本外史』頼山陽の歴史書「源氏から徳川氏まで」『史記』司馬遷・紀伝体『漢書』班固 『資治通鑑』北宋・司馬光による歴史書「為政者の鑑」 『本朝通鑑』林羅山・鵞峰父子が編纂

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源氏から徳川氏までの歴史を家系
ごとにまとめた、倒幕に大きな
影響を与えたという、江戸時代に
頼山陽が著した歴史書は?
外日資鑑通
大朝録史本
日本外史(答)
にほんがいし

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中国・漢代に書かれた歴史書で
『史記』を書いた歴史家は
司馬遷ですが

『漢書』を書いたのは○○?
○の漢字をひらがなで答えなさい
はんこ
班固(答)

班昭 はんしょうは不正解になるかも?

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司馬遷による歴史書
『史記』は
紀伝体で書かれている
○(答)
✕「編年体」

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1084年に中国・北宋の
司馬光が完成させた
編年体による歴史書は?
本歴朝通鑑
紀史記資治
資治通鑑(答)
しじつがん
33%

連想
漢文体の歴史書
全310巻
後陽成天皇まで
林羅山・鵞峰父子が編纂
本朝通鑑(答)

『日本外史』(にほんがいし)は、江戸時代後期に頼山陽が著した国史の史書。源平2氏から徳川氏までの武家盛衰史で、すべて漢文体で記述。文政10年(1827年)、山陽と交流があった元老中首座の松平定信に献上され、2年後に大坂の秋田屋など3書店共同で全22巻が刊行された。明治以後、口語体での邦訳本も数社から刊行されている。
>平安時代末期の源氏・平氏の争いから始まり、北条氏・楠氏・新田氏・足利氏・毛利氏・後北条氏・武田氏・上杉氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏までの諸氏の歴史を、武家の興亡を中心に家系ごとに分割されて(列伝体)書かれている。なお「徳川氏」は、同時代の10代将軍家治の治世まで扱うが、後半部は人事の記述が主となっている。山陽の死後、弟子の岡田鴨里が日本外史補を著作・編集・刊行した。

風雲急を告げる幕末のニッポン。ペリー来航を期に、泰平の眠りを覚まされ、時代の大きなうねりに飲み込まれてしまうのではないかと不安が増すなか、人々にこぞって読まれたのが『日本外史』でした。
『日本外史』―幕末のベストセラーを「超」現代語訳で読む | 頼山陽著 長尾剛訳 | 書籍 | PHP研究所
風雲急を告げる幕末のニッポン。ペリー来航を期に、泰平の眠りを覚まされ、時代の大きなうねりに飲み込まれてしまうのではないかと不安が増すなか、人々にこぞって読まれたのが『日本外史』でした。 …

『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。
二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。
日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。
引用元:史記 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98

デジタル大辞泉の解説
[前145ころ~前86ころ]中国、前漢の歴史家。夏陽(陝西(せんせい)省)の人。字(あざな)は子長。武帝の時、太史令となり、暦法の改革に参加。匈奴に降った李陵を弁護したため宮刑に処せられ、のち、父の司馬談の遺志を継いで「史記」を完成させた。太史公。
引用元:司馬遷(しばせん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%B7-74715

『漢書』(かんじょ)は、中国後漢の章帝の時に班固、班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。後漢書との対比から前漢書ともいう。
『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。
『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。史記と重なる時期の記述が多いので、比較される事が多い。特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、史記に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは史記に勝る。また思想的に、儒教的な観点により統一されている。
引用元:漢書 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E6%9B%B8

デジタル大辞泉の解説
はん‐こ【班固】

[32~92]中国、後漢の学者。扶風安陵(陝西(せんせい)省)の人。班超(はんちょう)・班昭(はんしょう)の兄。字(あざな)は孟堅(もうけん)。詔を奉じて、父班彪(はんぴょう)の志を継ぎ「漢書」を編述、獄死したため未完となったが、妹の班昭が完成させた。賦にも長じ、「両都賦」の作がある。
引用元:班固(はんこ)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%8F%AD%E5%9B%BA-117991

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
班昭
はんしょう
Ban Zhao; Pan Chao

[生]建武21(45)
[没]元初4(117)?
中国,後漢の才女。曹大家 (そうだいこ) とも呼ばれる。班固,班超の妹で,博学の名が高く,兄の死後その著『漢書』を完成させた。『漢書』のうち,8編の『表』と『天文志』とが彼女の手になる。
引用元:班昭(はんしょう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%8F%AD%E6%98%AD-118122

『資治通鑑』(しじつがん 繁体字:資治通鑒、簡体字:资治通鉴、ピン音:Zīzhì Tōngjiàn、ウェード式:Tzu-chih T’ung-chien )とは、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂した、編年体の歴史書。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。1084年(元豊7年)の成立。全294巻。もとは『通志』といったが、神宗により改名されて『資治通鑑』とするようになった。
>この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光当時の史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。
引用元: 資治通鑑 – Wikipedia

中国、宋代の歴史書。294巻。司馬光撰。1084年完成。周の威烈王の前403年から、後周の世宗の959年までの1362年間の君臣の事績を編年体で記したもの。名著の評高く、為政上の鑑(かがみ)と賞されてこの名を賜った。
引用元: 資治通鑑 とは – コトバンク

江戸幕府は、初期の頃から歴史の編纂に積極的でした。3代将軍徳川家光は、正保元年(1644)、儒者の林羅山に国史の編纂を命じ、羅山は、六国史の記述をもとに、神武天皇から宇多天皇に至る歴史を記し、『本朝編年録』と題して進呈しました。しかし『本朝編年録』は、明暦3年(1657)の大火で焼失。寛文2年(1662)、4代将軍家綱は、羅山の子の鵞峰に国史編纂の再開を命じ、永井尚庸を総裁として新たに編纂事業が始まります。
>清書本と中書本(最終的な清書本を作成する前の中間的な清書本)それぞれ310冊が幕府に進呈され、清書本は紅葉山文庫に収められ、中書本は将軍家綱の座右に置かれました。『本朝通鑑』の書名や形式は、司馬光の『資治通鑑』や朱熹の『資治通鑑綱目』に倣っています。
引用元: 11.本朝通鑑 – 歴史と物語:国立公文書館