副使「原マルティノ」「中浦ジュリアン」 キリシタン大名「大村純忠・バルトロメオ・肥前」「有馬晴信・プロタジオ・肥前」「大友宗麟・フランシスコ・豊後」

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洗礼名はフランシスコ
天正遣欧少年使節を派遣
耳川の戦いで島津義久に敗北
豊後のキリシタン大名
小西行長
蒲生氏郷
大友宗麟(答)
高山右近
大村純忠
92%

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次の天正遣欧少年使節団の
メンバーのうち
副使だった者を全て選びなさい
千々石ミゲル
原マルティノ(答)
中浦ジュリアン(答)
伊東マンショ

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キリシタン大名
大村純忠の洗礼名は?
プロタジオ 有馬晴信 肥前国
ジュスト 高山右近 「福者」 摂津国
フランシシコ 大友宗麟 豊後国
バルトロメオ(答)大村純忠 肥前国

ですが大友宗麟の洗礼名は?
フランシスコ(答)

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次のうち
天正遣欧少年使節団が謁見した
ローマ教皇を全て選びなさい
グレゴリウス13世(答)
ウルバヌス7世 
シクストゥス5世(答)
インノケンティウス9世
ピウス4世

線結び
次のキリシタン大名とその洗礼名の正しい組み合わせを選びなさい
大村純忠───バルトロメオ
大友宗麟───フランシスコ
蒲生氏郷───レオ

線結び
次のキリシタン大名とその洗礼名の正しい組み合わせを選びなさい
高山右近───ジュスト
小西行長───アウグスティヌス
宇久純尭───ドン=ルイス

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戦国時代のキリシタン大名
大村純忠が本拠としていた
九州の旧国名は◯◯国?
豊後
日向
肥摩
肥前(答)

〈 キリスト教の布教とキリシタン大名 〉
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織田信長の政治|社会の部屋|学習教材の部屋

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通称を「官兵衛」といった
豊臣秀吉の家臣は黒田○○?
孝高
よしたか(答)
「黒田孝高」くろだよしたか

キリシタン大名(キリシタンだいみょう、吉利支丹大名)は、戦国時代から江戸時代初期にかけてキリスト教に入信、洗礼を受けた大名のこと。
主なキリシタン大名には高山右近、大友義鎮、大村純忠、有馬晴信、小西行長、黒田孝高、蒲生氏郷、筒井定次などがいる。
キリシタン大名 – Wikipedia

バチカン(ローマ法王庁)は22日、戦国キリシタン大名の高山右近を「福者」に認定したと発表した。カトリックで「聖人」に次ぐ崇敬の対象だ。日本の聖人や福者はこれまで、長崎で処刑された「日本26聖人」といった例があるが、単独では初めて。

 「福者」となるには、殉教者であるか、病気を治したといった「奇跡」の認定が必要。高山右近は、(キリスト教への)憎悪のもとで命を落とした殉教者と認定され、フランシスコ法王が承認したという。
引用元:キリシタン大名の高山右近が「福者」に バチカン認定:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASJ1Q6RXTJ1QUHBI02W.html

てんしょうけんおうしせつ【天正遣欧使節】

イエズス会巡察師バリニャーノの発起により豊後の大友義鎮(宗麟),肥前の有馬晴信,大村純忠の3キリシタン大名がローマ教皇に遣わした4少年からなる使節。バリニャーノはインド,ローマへの帰還に当たり,急きょ日本人キリシタンのローマ派遣を計画した。有馬のセミナリヨに学んでいた少年4名,正使に伊東マンショと千々石(ちぢわ)ミゲル,副使に原マルチノと中浦ジュリアンが選ばれて1582年(天正10)2月長崎を出帆,ゴア,リスボン,マドリード,フィレンツェを経て85年2月ローマ入りし,教皇グレゴリウス13世に謁した。
引用元:天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E9%81%A3%E6%AC%A7%E4%BD%BF%E7%AF%80-102444

シクストゥス5世は枢機卿時代から学問への関心が強く、アンブロジウスの著作の校訂版を完成させている。彼は学問の世界においてありがちな他者への批判や攻撃を嫌い、常に穏健な態度を保っていたことが、教皇選挙で彼が選ばれる1つの理由となった。選挙において、シクストゥス5世が自分の老いを盛んに演技して票を勝ち取ったというのは後世の作り話である。むしろ選挙においては、彼の若々しさが評価されている。教皇が若いということはそのまま在位が長くなるということを意味するのである(ちなみに教皇の即位式には、ローマ滞在中であった天正遣欧使節のメンバーたちも招かれて参加している)。
引用元:シクストゥス5世 (ローマ教皇) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B95%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

おおともそうりん【大友宗麟】

1530‐87(享禄3‐天正15)
戦国期に豊後を本拠とした大名。義鑑(よしあき)の子。実名は義鎮(よししげ),入道して三非斎,府蘭,円斎,宗滴と号す。キリシタン大名と呼ばれるが受洗は隠居後。受洗名フランシスコ。1582年(天正10)大村氏,有馬氏とともに天正少年使節団を派遣したといわれるが,使節持参の宗麟書状は偽文書で,少なくとも宗麟に関するかぎり使節は偽使。キリシタンに好意を示した動機は明らかに貿易が目的で,豊後府内沖ノ浜などを南蛮船の貿易港とし,フィリピン等へ貿易船を派遣するなど十分な成果をあげた。
大友宗麟(おおとも そうりん)とは – コトバンク

おおむらすみただ【大村純忠】

1533‐87(天文2‐天正15)
肥前国大村を本拠とした戦国期の武将。入道して理専,キリシタンとしてドン・バルトロメオ。有馬晴純の子,大村純前(すみあき)の養嗣子。キリシタン大名として有名。1562年(永禄5)キリシタンに好意を示すことによって,ちょうど平戸でトラブルをおこしていたポルトガル船を領内横瀬浦に招致。63年受洗することによって,貿易上の結びつきをより強固なものとした。しかし同年大村氏出身の後藤貴明とそれに同調する純忠家臣に横瀬浦を襲われ,滞在していた純忠はかろうじて逃れたものの,横瀬浦は焼亡,領内も反乱軍と貴明にほとんど掌握された。
大村純忠(おおむらすみただ)とは – コトバンク

ありまはるのぶ【有馬晴信】

1567‐1612(永禄10‐慶長17)
キリシタン大名。岡本大八事件により改易。義貞の次男。鎮純,鎮貴,修理大夫などと称する。1576年(天正4)肥前日野江城主となる。竜造寺氏に圧迫され,84年島津氏の援助でこれを破った。イエズス会の援助をも得,80年バリニャーノから受洗しプロタジオ,のちジョアンと称する。大友,大村の大名と天正遣欧使節をローマに遣わした。86年豊臣秀吉より高来郡4万石を安堵され朝鮮の役で小西行長の配下に属した。秀吉の禁教令下,多数の宣教師を領内にかくまった。

有馬晴信(ありまはるのぶ)とは – コトバンク

小西行長 こにし-ゆきなが

?-1600 織豊時代の武将。
小西隆佐(りゅうさ)の次男。堺の豪商小西氏の一族でキリシタン大名。宇喜多直家,ついで豊臣秀吉につかえ,天正(てんしょう)16年(1588)肥後(熊本県)宇土城主となる。文禄(ぶんろく)・慶長の役で先鋒(せんぽう)をつとめる。関ケ原の戦いでは西軍に属して敗れ,慶長5年10月1日処刑された。通称は弥九郎。洗礼名はアゴスチーニョ。
【格言など】たとえいい置く儀億万あり共,いま首の座に居て白状すべきや(処刑前に,言い残すことはないかとたずねられて)
小西行長(こにしゆきなが)とは – コトバンク