「淡竹」はちく 「孟宗」二十四孝の一人 孟宗竹(もうそうちく)  字は恭武

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5~6月頃に旬を迎える
中国原産の細いタケノコ
淡竹
はちく(答)

「破竹の勢い」の破竹と淡竹は違うようです。

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引用元:淡竹とは – 難読語辞典 Weblio辞書 http://www.weblio.jp/content/%E6%B7%A1%E7%AB%B9

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二十四孝
字は恭武
親孝行
竹の名前
唐夫人
孟宗(答)
虞舜
陸績

ハチク(淡竹)は中国原産の竹の一種。黄河流域以南に広く分布し、日本ではモウソウチク、マダケに次いで各地でよく植栽されている。北海道南部以南に分布し、モウソウチクよりも耐寒性を有するために特に日本海側に多い。山地では野生化しているものもある。別名アワダケ、呉竹(くれたけ)。
>750年(勝宝3年)頃には日本にあったことが知られているが、起源は不明である。 細く割れるため茶筅などの茶道用具、花器に利用されるほか、枝が細かく分枝するため竹箒として利用される。 正倉院の呉竹笙、呉竹竿、彫刻尺八、天平宝物の筆などはハチク製と鑑定されている。 また、内側の薄皮は竹紙と呼ばれ、笛の響孔に張り音の響きを良くするほか、漢方薬としても使用される。
引用元:ハチク – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%81%E3%82%AF

「破竹」は竹を破る(割る)こと。
「破竹の勢い」などとして使う言葉。

「淡竹」は中国原産の竹の品種の名前。

「淡竹」のことを「破竹」と書くのは漢字の誤用です。
引用元:破竹と淡竹って違うんですか? – 「破竹」は竹を破る(割る)こと。… – Yahoo!知恵袋 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1163446651

孟 宗(もう そう、? – 271年)は、中国三国時代の呉の人。字は恭武。荊州江夏郡の出身。「二十四孝」の一人に数えられると共に、モウソウチク(孟宗竹)の名前の由来になっている。
>その後、朱拠の軍吏となり、母を連れて軍営で暮らした。しかし志を得られず、住まいが雨漏りしたので、孟宗は泣いて母に謝った。しかし母は「今はただ励み勉める時です。泣くほどの事でしょうか」と言った。朱拠は孟宗の事を知るようになると、彼を塩池司馬に任命した。あるとき孟宗は自分で網を作って魚を捕らえ、魚の漬物を作って母に食べさせようとした。しかし母はそれを返し「お前は魚を管理する官なのだから、私に魚を送ってきては嫌疑をかけられますよ」と窘めた。
また母が筍を好んだため、冬で筍が採れる季節ではない時、孟宗が竹林に入って哀嘆したところ、筍が生えてきたため母に食べさせる事ができたという。これがモウソウチク(孟宗竹)の名前に孟宗が使われる由来とされる。
孟宗 – Wikipedia

にじゅうし‐こう〔ニジフシカウ〕【二十四孝】

中国で古来有名な孝子24人の称。虞舜(ぐしゅん)・漢の文帝・曽参(そうしん)・閔子騫(びんしけん)・仲由・董永(とうえい)・剡子(えんし)・江革・陸績・唐夫人・呉猛・王祥・郭巨・楊香・朱寿昌・庾黔婁(ゆけんろう)・老莱子(ろうらいし)・蔡順・黄香・姜詩(きょうし)・王褒(おうほう)・丁蘭・孟宗・黄庭堅のこと。
(廿四孝)「本朝廿四孝」の略称。
二十四孝(ニジュウシコウ)とは – コトバンク

『二十四孝』(にじゅうしこう)は、中国において後世の範として、孝行が特に優れた人物24人を取り上げた書物である。元代郭居敬が編纂した[1]。儒教の考えを重んじた歴代中国王朝は、孝行を特に重要な徳目とした。ここに紹介された中には、四字熟語や、関連する物品の名前として一般化した物もある。日本にも伝来し、仏閣等の建築物に人物図などが描かれている。また、御伽草子や寺子屋の教材にも採られている。孝行譚自体は数多く、ここに採られたものだけが賞されたわけではない。
>陸績[編集]
陸績(りくせき)は6歳の時に袁術(えんじゅつ)という人の所に居た。袁術は陸績のために、おやつとして蜜柑を与えた。陸績はそれを3つ取って帰ろうとすると、袖から蜜柑がこぼれてしまった。袁術は「陸績君は幼いのに泥棒のようなことをするのかね」と言ったところ、陸績は「あまりに見事な蜜柑なので、家に持ち帰って母に食べさせ、恩に報いようと思いました」と言った。袁術はこれを聞いて「幼いのに何という親孝行な子供であろうか、過去現在において稀な心がけである」と褒め称えた。
>孟宗[編集]
孟宗(もうそう)は、幼い時に父を亡くし年老いた母を養っていた。病気になった母は、あれやこれやと食べ物を欲しがった。ある冬に筍が食べたいと言った。孟宗は竹林に行ったが、冬に筍があるはずもない。孟宗は涙ながらに天に祈りながら雪を掘っていた。すると、あっと言う間に雪が融け、土の中から筍が沢山出て来た。孟宗は大変喜び、筍を採って帰り、熱い汁物を作って母に与えると、たちまち病も癒えて天寿を全うした。これも深い孝行の思いが天に通じたのであろう[2]。
>舜[編集]
舜(しゅん)は大変孝行な人であった。父の名前は瞽叟と言い頑固者で、母はひねくれ者、弟は奢った能無しであったが、舜はひたすら孝行を続けた。舜が田を耕しに行くと、象が現れて田を耕し、鳥が来て田の草を取り、耕すのを助けた。その時の天子を堯と言った。堯は舜の孝行な心に感心し、娘を娶らせ天子の座を舜に譲った。これも孝行の心が起こしたことである。
>唐夫人[編集]
唐夫人(とうふじん)は、姑の長孫夫人に歯がないのでいつも乳を与え、毎朝姑の髪を梳いて、その他様々なことで仕え、数年が経った。ある時、長孫夫人が患い、もう長くないと思って一族を集めて言うには「私の嫁の唐夫人の、これまでの恩に報いたいが、今死のうとしているのが心残りである。私の子孫たちよ、唐夫人の孝行を真似るならば、必ず将来繁栄するであろう」と言った。このように姑に孝行なのは過去現在珍しいとして、皆褒め称えたと言う。やがて恩が報われ、将来繁栄するのは当たり前のことである。
二十四孝 – Wikipedia