「五郎太石」ごろたいし 野面の丸石 石垣の詰石・州浜敷き・延段など使用

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城を築く時に石垣の裏に
楔として詰めた細かい石
五郎太石
ごろたいし(答)

「呉呂太石(ごろたいし)」とも書くようです。

呉呂太石(ごろたいし)
 野面のままの丸っこい石で、直径5センチから10センチぐらいのものをいい、川原や野山にころがっている石のこと。

 玉石より小さく、栗石程度の大きさのもの。たんに呉呂太ともよび、庭の筧(掛樋)まわりや延べ段などにも使われる。五郎太石とも書く。
呉呂太石(ごろたいし)

慶長9年(1604年)、輝元は新たな毛利氏の本城を萩城と定め、重臣である元直と益田元祥にその築城を命じた。その際に元祥の家臣が元直の一族である天野元信配下の者から築城の材料(五郎太石)を盗む事件が発生し、その責任をめぐって両者は対立したため築城作業は遅延する(五郎太石事件)。このことで徳川氏の不興を買うことを恐れた輝元は[1]、慶長10年(1605年)に萩城の築城の遅延の責を問うという理由で兵を送り、元直は一族の天野元信らと共に討たれた。この粛清の際に元直の妻や子の二郎兵衛、猪之介も殺害された。また、これと前後して毛利領内のキリスト教関係者の多くが処刑された。
熊谷元直 – Wikipedia