「幕末の異国船事件」「フェートン号事件」英国軍艦・ナポレオン戦争の影響・オランダ商館員の拿捕「モリソン号事件」米国商船・蛮社の獄へ「マリア・ルース号事件」ペルー船・苦力(クーリー)開放へ「ノルマントン号事件」英国貨物船・日本人全員溺死・領事裁判権撤廃運動へ「サン・フェリペ号事件」豊臣秀吉「二十六人聖人殉教」のきっかけ

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1808年の事件
ナポレオン戦争の影響
イギリスの軍艦が長崎に侵入
オランダの商館員が拿捕
フェートン号事件(答) 1808
モリソン号事件
サン・フェリペ号事件
ノルマントン号事件

いつも間違うのでまとめて復習します。
二十六聖人つながりでプティジャンも。


1596年の事件
土佐沖にスペイン船が漂着
積荷と船員の所持品を全て没収
「二十六聖人の殉教」
サン・フェリペ号事件(答) 1596

連想
1837年の事件
アメリカ・オリファント社の商船
漂流民・音吉らが乗船
「蛮社の獄」をもたらす
モリソン号事件(答) 1837

連想
1872年の事件
娼妓解放令のきっかけ
日本が苦力の解放を命じた
横浜に寄港したペルー船
マリア・ルース号事件(答) 1872

連想
1886年の事件
紀州沖でイギリスの貨物船が難破
日本人の乗客が全員溺死
不平等条約の領事裁判権が問題に
ノルマントン号事件(答) 1886

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長崎市の大浦天主堂を設計した
フランス人司祭です
プティジャン(答)
Bernard-Thadée Petitjean

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
フェートン号事件
ふぇーとんごうじけん

1808年(文化5)長崎に侵入したイギリス軍艦による狼藉(ろうぜき)事件。ナポレオン戦争によりフランスに併合されていたオランダと交戦国の関係にあったイギリスの軍艦フェートン号Phaeton(艦長ペリューReynolds Pellew大佐)が同年10月14日(和暦8月15日)オランダ国旗を掲げて長崎に入港、これを蘭船(らんせん)と誤認して、長崎奉行(ぶぎょう)所役人・通詞(つうじ)らとともに出向いたオランダ商館員2名を捕らえ、湾内を探索したうえ、薪水(しんすい)・食糧を強要して乱暴をはたらいた。当時、長崎警固の任にあった佐賀藩兵は1000余名のところ、実在100余名にすぎず、日本側はこれに施す策もないまま、同月17日に、みすみす同艦を立ち去らせてしまった。その夜、時の長崎奉行松平康英(やすひで)は切腹自殺した。この事件は当時の為政者に深刻な衝撃を与え、幕府の海防政策強化を促し、後の異国船打払令(1825)発布の契機となった。[加藤榮一]
引用元: フェートン号事件(フェートンごうじけん)とは – コトバンク.

サン=フェリペ号事件(サン=フェリペごうじけん)は、1596年に起こった日本の土佐国でのスペインのガレオン船、サン=フェリペ号漂着事件。豊臣秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害(日本二十六聖人殉教)のきっかけとなったとされる。
引用元: サン=フェリペ号事件 – Wikipedia.

モリソン号事件(もりそんごうじけん、英: Morrison Incident)とは、1837年(天保8年)、日本人漂流民(音吉ら7人)を乗せたアメリカ合衆国の商船を日本側砲台が砲撃した事件。
>またモリソン号は非武装であり、当時はイギリス軍艦と勘違いされていた。のちに、『慎機論』を著した蘭学者渡辺崋山、『戊戌夢物語』を著した高野長英の尚歯会2人らが幕府の対外政策を批判したため逮捕されるという事件(蛮社の獄)が起こる。
引用元: モリソン号事件 – Wikipedia.

マリア・ルス号事件(マリア・ルスごうじけん)とは、明治5年(1872年)に横浜港に停泊中のマリア・ルス号(ペルー船籍)内の清国人苦力を奴隷であるとして日本政府が解放した事件を言う。また日本が国際裁判の当事者となった初めての事例である。
>この訴えに対し2度目の裁判では移民契約の内容は奴隷契約であり、人道に反するものであるから無効であるとして却下した。また、この裁判の審議で船長側弁護人(イギリス人のフレデリック・ヴィクター・ディキンズ[2])が「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」として遊女の年季証文の写しと横浜病院医治報告書を提出した。日本国内でも娼妓という「人身売買」が公然と行われており、奴隷売買を非難する資格がないとの批判により日本は公娼制度を廃止せざるを得なくなり、同年10月に芸娼妓解放令が出される契機となった。
引用元: マリア・ルス号事件 – Wikipedia.

ノルマントン号事件(Normanton Incident)とは、1886年(明治19年)10月24日にイギリス船籍の貨物船、マダムソン・ベル汽船会社所有のノルマントン号(Normanton、より英語に忠実な表記は「ノーマントン」)が、紀州沖(和歌山県東牟婁郡串本町潮岬沖)で座礁沈没した事から始まった紛争事件である。
>1886年(明治19年)10月24日午後8時ごろ、横浜港から日本人乗客25名と雑貨をのせて神戸港に向かったイギリス貨物船ノルマントン号240トンが、航行途中、暴風雨によって三重県四日市より和歌山県樫野崎までの沖合で難破、座礁沈没した[1]。その際、ジョン・ウイリアム・ドレーク船長以下イギリス人やドイツ人からなる乗組員26名は全員救命ボートで脱出し、漂流していたところを沿岸漁村の人びとに救助されて手厚く保護された[1][注釈 1]。
ところが日本人乗客25名は、一人も避難できた者がおらず、船中に取り残されてことごとく溺死した[注釈 2]。
>ノルマントン号事件は、領事裁判の不当さを日本人に痛感させた事件として歴史に残るものになった。この事件は、当時胎動しつつあった大同団結運動派によってさかんに取り上げられ、井上外交を「媚態外交」「弱腰外交」と批判し、外交の刷新、条約改正(不平等条約撤廃)を要求する動きがさらに強まった[3]。
引用元: ノルマントン号事件 – Wikipedia.

ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサごうじけん)は、江戸時代初期の1608年から1610年に起きた、ポルトガル貿易船の爆沈事件。マードレ・デ・デウス号 (Madre de Deus) 事件とも呼ばれるが、ポルトガルの原史料における船名は「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号 (Nossa Senhora da Graça)」である。
引用元: ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件 – Wikipedia.

エクソンバルディーズ号原油流出事故(エクソンバルディーズごうげんゆりゅうしゅつじこ、Exxon Valdez oil spill)は原油タンカーエクソン・ヴァルディーズが座礁により積荷の原油を流出させた事故。この事故はこれまで海上で発生した人為的環境破壊のうち最大級のものとみなされている。現場はプリンスウィリアム湾の遠隔地(交通手段はヘリコプターと船のみ)ゆえ、政府も企業側も対応が困難であり既存の災害復旧対策案は大幅な見直しを迫られた。この地域はサケ・ラッコ・アザラシ・海鳥の生息地である。
引用元: エクソンバルディーズ号原油流出事故 – Wikipedia.

ベルナール・プティジャン(フランス語:Bernard-Thadée Petitjean, 1829年6月14日 – 1884年10月7日)は、フランス出身のカトリック宣教師である。パリ外国宣教会会員として幕末の日本を訪れ、後半生を日本の布教にささげた。1865年、大浦天主堂での「隠れキリシタンの発見」(信徒発見)の歴史的瞬間に立ち会ったことで有名。
>後にプティジャンは日仏通商条約にもとづいて長崎の西坂(日本二十六聖人の殉教地)を見ることができる丘の上に居留地に住むフランス人のために教会を建築する許可を得た。こうして建てられたのが大浦天主堂である。
引用元: ベルナール・プティジャン – Wikipedia.