「オゴタイ・ハン」モンゴル帝国2代皇帝「ワールシュタットの戦い」「金を滅亡」「キプチャク・ハーン国」

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金を滅亡させる
ワールシュタットの戦い
チンギス・ハンの三男
モンゴル帝国の第2代皇帝
モンケ・ハン
チャガタイ・ハン
オゴタイ・ハン(答)
バトゥ

何回やっても覚えられない4ハン国も復習します。
「チャカ(拳銃)あるって怒ったエミールが切符さらっていった」

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岐阜県教育委員会 モンゴル帝国の系図と4ハン国.

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モンゴル帝国の分裂後に
形成された「4ハン国」で
チャガタイ・ハン国の首都は
どこだった?
タブリーズ
アルマリク(答)
サライ
エミール

モンゴル帝国の分裂後に
形成された「4ハン国」で
チャガタイ・ハン国の首都は
アルマリクですが

オゴタイ・ハン国の首都はどこだった?
→エミール

キプチャク・ハン国の首都はどこだった?
→サライ

イル・ハン国の首都はどこだった?
→タブリーズ
引用元: 4ハン国の首都 アルマリク「チャガタイ・ハン」 エミール「オゴタイ・ハン」 サライ「キプチャク・ハン」 タブリーズ「イル・ハン」 | わかればいいのに I wish I knew.

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
オゴタイ・ハン
おごたいはん
gedei Qaran
(1186?―1241)

モンゴル帝国第2代の皇帝(在位1229~41)。廟号(びょうごう)は太宗。チンギス・ハンの第3子。史書は温順な人柄を伝えている。父のモンゴリア統一後、アルタイ近辺に4000の部民とともに所領を構えたらしい。1211~15年の金国遠征には、2人の兄ジュチ、チャガタイとともに右翼軍団を率い、山西地区を攻略した。19~25年のホラズム遠征では、チャガタイと同道してオトラル城を攻略し、ついでホラズムの首都ウルゲンチ攻囲に全軍集結した際、ジュチとチャガタイの不和をとりもった逸話は史上名高い。
>対外的にも父の路線を継承して、金国を滅ぼし(1234)、ついでジュチの次子バトゥ以下をロシア、ヨーロッパ遠征に、自分の第3子クチュ以下を南宋(なんそう)遠征に派遣した。1235年には占領地区の戸口調査を実施し、新税制の大綱を定め、主要都市には行政上の目付役としてダルガチを、前線の軍事要地にはタマ兵を置いた。さらにオルホン河畔に首都カラコルムを建設し、道路網を整備したが、以後は無気力が目立つまま死去した。[杉山正明]
『ドーソン著、佐口透訳『モンゴル帝国史2』(平凡社・東洋文庫)』
引用元: オゴタイ・ハン(おごたいはん)とは – コトバンク.

オゴデイ(Ögödei、Ögedei、Ogedei qaghan.svg)はモンゴル帝国の第2代モンゴル帝国皇帝(カアン、大ハーン)。モンゴル帝国の君主で初めて自らの君主号をカンに代えてカアン(Qa’an<Qaγan)と名乗った人物と考えられている。
>チンギス・カンの三男。母はボルテ。ジョチ、チャガタイの弟、トルイの兄。
>皇帝として[編集]
オゴデイの即位(『集史』より)
その後、オゴデイは父の覇業を受け継ぐべく積極的な領土拡大を行なった。1232年にはトルイの活躍で金の名将・完顔陳和尚率いる金軍を壊滅させ、1234年までに金を完全に滅ぼした(第二次対金戦争)。
さらに1235年、首都としてカラコルムの建設を行い、同地でクリルタイを開催。南宋方面とキプチャク草原からルーシ・東欧に至る西方遠征の二大遠征と、あわせて高麗、カシュミールへの遠征計画を決議した。南方遠征(モンゴル・南宋戦争)については、総司令として中央軍を三男のクチュ(中国語版)(英語:Khochu)に任じて山西経由で南下させ、次男コデン率いる西路軍を陝西・四川方面へ派遣しこれを征服させた。
引用元: オゴデイ – Wikipedia.

モンゴル帝国第4代ハン。弟のフビライを南方、弟フラグを西アジアに派遣した。

 モンゴル帝国第4代ハン。廟号は憲宗(在位1251~59年)。チンギス=ハンの末子トゥルイの子。オゴタイ=ハンの時、バトゥの西征に加わる。第3代グユク=ハンが死んだとき、バトゥの支持を受けてハンに即位し、オゴタイ=ハンとチャガタイ=ハンの子たちを処刑、追放に処し、権力を握った。弟フビライをチベットから雲南地方、ベトナムに進撃させて南宋の南方を抑え、さらに弟フラグを西アジアに派遣して、イランを制圧させ、バクダードを陥落させた。最後に自ら南宋遠征軍を指揮して南下したが、1259年、四川で病没した。モンケ=ハンはカラコルムにおいて、フランスからやって来たルブルックに面談している。
引用元: モンケ=ハン.

チャガタイ(Čaγatai/Ča’adai, 1178年/1185年/1186年? – 1242年)は、モンゴル帝国の皇族の一人で、チンギス・カンの次男。ジョチの弟、オゴデイとトルイの兄に当たる。ペルシア語表記では چغتاى خان Chaghatāī khān と綴る。日本語文献では、チャプタイとも表記される。
生年は1185年、1186年など諸説ある。長兄ジョチとは、ジョチの出生の疑惑などをめぐって険悪な仲であった。また、チャガタイ自身が激しい気性と一本気な性格の持ち主であったため、一族の和を重んじる父チンギスから後継者候補としては除外されていたという。しかし、法に対して厳格な一面があったため、それを父に見込まれてモンゴル帝国の法律・ヤサの管理を任され、「ヤサの番人」の異名を取った。
引用元: チャガタイ – Wikipedia.

世界大百科事典 第2版の解説
バトゥ【Batu】

1207‐55
キプチャク・ハーン国の創始者。在位1227‐55年。チンギス・ハーンの長子ジュチの次男。父の死後ハーン位を継承した(1227)。1236年から始まったモンゴル軍の西征では,総大将としてロシア・東欧に侵入し,1241年のリーグニツの戦では,ヨーロッパ連合軍を粉砕した。ハンガリー攻略中に,オゴタイ・ハーンの死を知り(1242),兵を返したが,自分はボルガ下流域に建設したサライを中心に,キプチャク・ハーン国を建てた(1243)。
引用元: バトゥとは – コトバンク.

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 オゴタイ=ハンは、金を滅ぼし(1234年)、カラコルムを都に定めた(1235年)。また、甥のバトゥを西方に遠征させて、ロシア諸侯を服属させ、さらに東ヨーロッパに進出しポーランドとドイツ騎士団の連合軍をワールシュタット(リーグニッツ)の戦い(1241年)で破り、ヨーロッパ中に衝撃を与えた。この戦いで連合軍を指揮したシュレジエン侯ハインリヒ2世は戦死した。しかし、バトゥのモンゴル軍はオゴタイ=ハンの死の知らせを受けて、引き返した。彼は、帰国途中のサライに留まりキプチャク=ハン国を建国した。
引用元:オゴタイ=ハン時代 http://weba6.gifu-net.ed.jp/~contents/kou_chirekikouminn/sekaishichizu/mongoria/mongoria_3.html

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4ハン国と元は、ゆるやかな結合を保ち続け、東西世界が陸海の交通路で結ばれることになった。
それらの道を通り、人や物の交流は一段と活発化し、元の都の大都は「草原の道」「オアシスの道」「海の道」のすべてを結ぶ結節点となった。交通路とその安全を図るジャムチ(駅伝)の整備、大都と江南を結ぶ運河の整備、杭州・泉州・広州などの貿易港の繁栄は、すべて大都を基点とするものであった。マルコ=ポーロの旅もこの陸海の交通路を利用したものであった。陸路では、中国の絹・銀・茶の交易が、海路では絹・陶磁器・銅銭の交易が活発に行なわれた。海外からは、香辛料・象牙・珊瑚・真珠などがもたらされた。
引用元:モンゴル帝国 http://weba6.gifu-net.ed.jp/~contents/kou_chirekikouminn/sekaishichizu/mongoria/mongoria_6.html

コメント

  1. rdh より:

    この地図はおかしいよ。高麗が元に含まれていない。
    まるで独立国のように描かれている。