「大川周明」おおかわしゅうめい「東條英機の頭を叩く」『日本二千六百年史』「五・一五事件で有罪」

216VJOVNaIHit
五・一五事件で有罪判決
著書『日本二千六百年史』
法廷で東條英機の頭を叩く
東京裁判で民間人唯一のA級戦犯
小佐野賢治 おさのけんじ「ロッキード事件」『記憶にございません』
佐藤正忠 さとうせいちゅう 経営者向け雑誌『経済界』
糸山英太郎 いとやまえいたろう 政治家・湘南工科大学総長
大川周明(答) おおかわしゅうめい

頭を叩く映像は衝撃的ですね

大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年12月6日 – 1957年12月24日)は、日本の思想家。 1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した[1]。
なお、東京裁判において民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴されたことでも知られる。しかし、精神障害と診断され裁かれなかった。晩年はコーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究でも知られる。
>一方、日本精神復興を唱えて佐藤信淵、源頼朝、上杉謙信、横井小楠らの評伝をまとめ『日本精神研究』(1924年)を執筆。日本史を概観する書物として『日本二千六百年史』(1939年)を著す。同書は大ベストセラーとなるが、当時賊徒とみなされていた北条義時、北条泰時、足利尊氏・直義兄弟を称賛するなどの内容があったため批判され、改訂を余儀なくされる。
>三月事件・十月事件・血盟団事件など殆どの昭和維新に関与し、五・一五事件でも禁錮5年の有罪判決を受けて服役。
>戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴された。1946年3月21日に極東軍事裁判被告人選定委員会に提出された報告書によると、訴追の理由として「扇動的な書物を出版し、講演で変革を訴え、超国家主義的右翼団体を結成」「陸軍が合法的独立国家の中国から満州を奪取できるように、満州事変の陰謀をめぐらし計画」が挙げられている。
>東京裁判には大川は水色のパジャマを着用し、素足に下駄を履いて出廷した。開廷後、パジャマを脱ぎ始めたり、休廷中に前に座っている東條英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いたり(この場面を記録した映像が現存している。東條は最初は苦笑していたものの、何度も叩かれたため睨みつけたという)、「インダー・コメンジー!(「Inder kommen Sie!、ドイツ語で「インド人よ来たれ」の意。アメリカはインディアンを収奪したことを主張していたという説がある)」、または「イッツア・コメディ!(It’s a comedy!、戦勝国による裁判に対する不公正を主張した説がある)」、「アイ、アイ・シンク(I, I think)」などと支離滅裂な言動を行ったため、法廷内で失笑を誘った。
引用元: 大川周明 – Wikipedia.

小佐野 賢治(おさの けんじ、1917年2月15日 – 1986年10月27日)は、日本の実業家である。国際興業グループ創業者。
>また、後の内閣総理大臣・田中角栄との関係が「刎頸の友[1]」と言われるなど有力な政商として知られ、政財界と暴力団の橋渡しを行っているなどとの噂から、「裏世界の首領」、「黒幕」などと揶揄されることもあった。実際、戦後最大の疑獄事件であるロッキード事件でも関係者として国会に召喚されたが、この証人喚問で小佐野が繰り返した答弁「記憶にございません」は当時の流行語となった。ただ、実際には「記憶『に』ございません」と答弁した記録はなく、正確な答弁内容は「記憶『は』ございません」「記憶がありません」などの繰り返しである。
引用元: 小佐野賢治 – Wikipedia.

株式会社経済界(けいざいかい、英称:KEIZAIKAI CO.,LTD.)は、昭和39年4月に設立。雑誌『財界』などと並ぶ老舗の経営者向け雑誌『経済界』の出版元及び、歴史ある異業種交流会『経済界倶楽部』の親会社である。
雑誌『経済界』は、週刊東洋経済などのビジネス雑誌とは一線を画し、経営者のインタビュー中心の記事構成を取る。
>リコー社長・市村清の私設秘書をしていた佐藤正忠(さとう せいちゅう、1928年 – 2013年8月17日[1])が1964年に前身のフェイス出版を設立。
引用元: 経済界 (出版社) – Wikipedia.

糸山 英太郎(いとやま えいたろう、1942年6月4日 – )は、日本の政治家、実業家[1]。
>1970年12月、笹川良一の姪・笹川の弟笹川了平の娘である桃子と見合い結婚して資金的にも恵まれるようになり、政界、投資にも進出。1971年8月14日から翌1972年3月10日までの188日間にわたり、大阪証券取引所を舞台に、中山製鋼所の株をめぐり「中山仕手戦」を展開。近藤紡社長の近藤信男を相手取って徹底的に中山製鋼所の株を買い漁り、仕手戦に勝利を収めて一躍世間に名を知られるようになった[5]。
>後の総理大臣・中曽根康弘の秘書を経て、1974年(昭和49年)、石原慎太郎の後押しにより自由民主党から第10回参議院議員通常選挙に全国区出馬、32歳で参議院議員に初当選するが、選挙期間中から金権選挙振りがマスコミの耳目を集めた。さらに当選直後に大規模な選挙違反が発覚、選対本部長をはじめ経営していた会社の社員・ギャンブル関係者など142人が逮捕され、1287人が検挙されるという当時としては最大規模の選挙違反事件に発展した。
>新日本観光株式会社等の会長職に就いており、東京都港区にある自社ビルのザ・イトヤマタワーには、自らも居住する。糸山政経塾を主宰し湘南工科大学の名誉総長及び名誉教授も務める。
2004年(平成16年)6月に、長男の太一朗を新日本観光株式会社の代表取締役副社長に迎えた。過去には日本航空の株を所有し、1998年(平成10年)には筆頭株主になったこともあり、上場廃止まで個人筆頭株主だった。
引用元: 糸山英太郎 – Wikipedia.