「生野の変」尊王攘夷派平野国臣が但馬国生野で挙兵 「八月十八日の政変」京都から尊王攘夷派を追放したクーデター 「天狗党の乱」藤田小四郎「筑波山事件」

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尊王攘夷派が挙兵
八月十八日の政変
1863年に起きた事件
首謀者は平野国臣
生野の変(答)
禁門の変
坂下門外の変
正中の変

「正中の変」だけ時代区分が異なります


1863年に薩摩藩・会津藩が長州藩
を京都から追放したクーデターを
その日付から「8月○○日の
政変」という? ○を答えなさい
18(答)
「8月18日の政変」

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1864年
水戸藩
武田耕雲斎や藤田小四郎
筑波山事件
天誅組の変
八月十八日の政変
天狗党の乱(答)
生野の変

百科事典マイペディアの解説
生野の変【いくののへん】

1863年尊攘派の筑前(ちくぜん)福岡藩士平野国臣(くにおみ),薩摩(さつま)鹿児島藩士美玉三平(みたまさんぺい)らが七卿落(しちきょうおち)の一人沢宣嘉(のぶよし)を擁して大和の天誅(てんちゅう)組に呼応し,但馬(たじま)国生野で討幕の兵をあげた事件。
引用元: 生野の変(いくののへん)とは – コトバンク.

八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)とは、江戸時代末期の文久3年8月18日(1863年9月30日)、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件である。文久の政変(ぶんきゅうのせいへん)、堺町門の変とも呼ばれる。
>事件の影響
政変の前日、土佐浪士の吉村虎太郎らは大和行幸の先鋒となるべく大和国五條で挙兵するも、政変による情勢の一変を受け9月末に壊滅した(天誅組の変)。また、10月には平野国臣や河上弥一らが七卿落ちの公家の一人澤宣嘉を擁して但馬国生野で挙兵したが、諸藩に包囲され澤らは逃亡、河上らは集めた農兵に逆に殺害されるなど、無残な敗北に至った(生野の変)。
引用元: 八月十八日の政変 – Wikipedia.

世界大百科事典 第2版の解説
きんもんのへん【禁門の変】

1864年(元治1)7月19日,長州藩と朝廷を固める会津藩,薩摩藩らの諸藩の間で起きた戦闘。蛤(はまぐり)御門の変ともいう。これより前,尊王攘夷を主張する長州藩は,〈文久3年(1863)8月18日の政変〉で,公武合体派の会津藩や薩摩藩らの諸藩兵により京都から追われ,朝廷の九門の一つ,禁門警備の任を免じられ,藩主が処罰された。長州藩には,京都を脱走した七卿や真木和泉らの浪士も集結し,失地回復をめぐって進発論や持重論が渦巻いた。
引用元: 禁門の変(きんもんのへん)とは – コトバンク.

百科事典マイペディアの解説
坂下門外の変【さかしたもんがいのへん】

1861年公武合体推進のため孝明天皇の妹和宮(かずのみや)降嫁を実現した老中安藤信正が,翌年1月15日江戸城坂下門外で尊攘派の水戸浪士6名に襲われ負傷した事件。
引用元: 坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)とは – コトバンク.

デジタル大辞泉の解説
しょうちゅう‐の‐へん〔シヤウチユウ‐〕【正中の変】

正中元年(1324)後醍醐天皇が側近の日野資朝(ひのすけとも)らと鎌倉幕府討伐を企てた政変。計画が事前に漏れて失敗し、資朝は佐渡に配流ののち殺されたが、天皇は無関係であると釈明して事なきを得た。
引用元: 正中の変(しょうちゅうのへん)とは – コトバンク.

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
天狗党の乱
てんぐとうのらん

幕末,水戸藩尊攘派 (天狗党) の挙兵。元治1 (1864) 年3月 27日藤田東湖の子小四郎 (→藤田小四郎 ) は,田丸稲之衛門を首領として筑波山に挙兵,武田耕雲斎もこれに呼応して京都に向ったが,越前で幕府軍に降伏した。
引用元: 天狗党の乱(てんぐとうのらん)とは – コトバンク.