【おはなし】オルシペ

沖縄の方言で、琉球以外の本土の
日本人のことを「ヤマトンチュ」
といいますが

アイヌの言語で
アイヌ民族以外の本土の日本人の
ことを何という?
ヤマトンチュ
シサム(答)
オルシペ
カムイ

和人(わじん)は、アイヌ以外の日本人または大和民族が自分たちをアイヌと区別するために用いた自称である[1][2]。和人は、アイヌの側からは「シサム」「シャモ」「シサムウタラ」(「隣人」の意)と呼ばれた[3]。類義語は、倭人。
引用元:和人 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%BA%BA

アイヌ(アイヌ語: Ainu / Aynu, ロシア語: Айны)は、もともと北海道のみならず、北は樺太、北東の千島列島、南は本州北部にまたがる地域に居住していた民族である[3]。

アイヌは生業から得られる毛皮や海産物などをもって、黒竜江下流域や沿海州との山丹交易を仲介したほか、カムチャツカ半島南部の先住民族のイテリメン族と交易を行うなど、永くオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた[4]。そして、和人とも交易を行い米などの食料や漆器、木綿、鉄器などを入手していた。

19世紀に列強の国々が領土拡張するにあたり、多くの先住民族が列強の政府によって各国に編入され、19世紀中頃にはアイヌも同様の運命をたどった[5]。すなわち1855年日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下[6]、各々の領土が確定した以降は、日本国民またはロシア国民となった。

アイヌは、元来は狩猟採集民族であり、文字を持たず、物々交換による交易を行う。独自の文化を有する[7]。母語はアイヌ語。独特の文様を多用する文化を持ち、織物や服装にも独特の文様を入れる[8](かつては、身体にも刺青を入れた)。家(住居)(アイヌ語で「チセ」)は、(昭和期以降の学者らが)「掘立柱建物」と呼ぶ建築様式である。

1878年(明治11年)、イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌの男性。
現在、アイヌは日本とロシアに居住する「少数民族[9]」であり、日本国内では北海道地方の他に首都圏等にも広く居住しているが、その正確な数はわかっていない。
引用元:アイヌ – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C

ユーカラ(yukar)は、アイヌ民族に伝わる叙事詩の総称。アイヌ語で「叙事詩」を意味する。少年の英雄が主人公となる内容が多いため「英雄叙事詩」と訳されることある。

特徴
短いものから何日もかけて語られる長いものまである。アイヌは文字を持たないため、口承で伝えられてきた。

アイヌ民族で、アイヌ文化研究者の萱野茂によると、イタッエユカㇻ=喋り方を真似る、アッカㇱエユカㇻ=歩き方を真似る、イペエユカㇻ=食べ方を真似る、などと珍しい言葉ではなく極普通につかわれている。私が語ったユカㇻも私が作者ではなく、ずーっと昔のアイヌが語りそれを誰かが真似て、口から口へと受け継がれ、私もそれをまねをさせてもらった。

金田一京助の分類によると、ユーカラは、「人間のユーカラ」(英雄叙事詩)と「カムイユーカラ」(神謡)の二種類に分けられる。人間(=アイヌ)を中心として語られるユーカラは、主にポンヤウンペと呼ばれる少年が活躍する冒険譚である。

「カムイユーカラ」はカムイが一人称で語る形式をとっており、サケヘと呼ばれる繰り返し語が特徴で、アイヌの世界観を反映した、神々の世界の物語である。中には、神・自然と人間の関係についての教えが含まれている。

散文の物語はアイヌ語ではウエペケレという。
引用元:ユーカラ – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%A9

砂沢 クラ(すなざわ クラ、1897年 – 1990年9月29日)は、北海道旭川市近文コタン出身のアイヌ文化伝承者。1983年(昭和58年)、北海道文化財保護功労者として表彰された[1]。

アイヌ語を母語とし、アイヌ民族の口承文学(ユーカラ、トゥイタクなど)を継承、記録した。民族の伝統手工業を引き継ぎ、アイヌ刺繍や花ござなど数多くの作品を残した。マタンプシ(鉢巻)、コソンテ(着物)、帯が北海道大学文学部アイヌ民俗資料として保存、保管されている[2]。アイヌ語話者、アイヌ文化継承者として言語学者、民俗学者の研究に貢献した。

50年に渡って書き続けた[3]日記を元に、「私の一代の話」「祖先の話」を記述。これを元にして、『ク スクップ オルシぺ : 私の一代の話』(北海道新聞社)が刊行された。
引用元:砂沢クラ – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E6%B2%A2%E3%82%AF%E3%83%A9

萱野 茂(かやの しげる、1926年6月15日 – 2006年5月6日)は、日本のアイヌ文化研究者。アイヌ文化、アイヌ語の保存・継承のために活動を続けた。二風谷アイヌ資料館を創設し、館長を務めた。アイヌ初の国会議員(1994年から1998年まで参議院議員)。「日本にも大和民族以外の民族がいることを知って欲しい」という理由で、委員会において史上初のアイヌ語による質問を行ったことでも知られる[1]。

息子の萱野志朗は、萱野茂二風谷アイヌ資料館館長、世界先住民族ネットワーク・AINU代表、FMピパウシ運営者、世界先住民族サミット2008の実行委員会最高責任者。
引用元:萱野茂 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%B1%E9%87%8E%E8%8C%82

知里 幸恵(ちり ゆきえ、1903年(明治36年)6月8日 – 1922年(大正11年)9月18日)は、北海道登別市出身のアイヌ女性。19年という短い生涯ではあったが、その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる。
引用元:知里幸恵 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E9%87%8C%E5%B9%B8%E6%81%B5

知里 真志保(ちり ましほ、1909年(明治42年)2月24日 – 1961年(昭和36年)6月9日)は、アイヌの言語学者。文学博士、北海道大学名誉教授。専攻はアイヌ語学。

業績
アイヌ民族の視点からアイヌ語を理論的に研究し、『分類アイヌ語辞典[9]』で1954年度の朝日文化賞を受賞[10]。その他にも、アイヌ語地名研究者の山田秀三とも共同しながら、アイヌ語学的に厳密な解釈を徹底させたアイヌ語地名の研究を進め、数々の論文や『地名アイヌ語小辞典[11]』などを刊行し、北海道の地名研究を深化させた。また、言語学者・服部四郎との共同で北海道・樺太各地のアイヌ語諸方言の研究を行いアイヌ語の方言学の基礎を築いた。その業績はもはや「アイヌ学」という一つの学問を築き上げている[要出典]。
引用元:知里真志保 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E9%87%8C%E7%9C%9F%E5%BF%97%E4%BF%9D