【ライフ誌契約カメラマンも】

1933年に日本工房を設立し
翌年には宣伝し「NIPPON」を創刊
した、日本における報道写真家
の先駆けとなった人物は?
土門拳
伊奈信男
名取洋之助(答)
木村伊兵衛
31%

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『国境を越えた子どもたち』
などの作品で、「写真界の
直木賞」と呼ばれる土門拳賞の
第1回受賞者になった写真家は?
長町理夫
野倉和男
三村洋嘉
三留理男(答)
みとめただお
引用元:「三留理男」みとめただお『国境を越えた子どもたち』で土門拳賞受賞 「荒木経惟」あらきのぶよし 「銀色夏生」ぎんいろなつを 「魚返一真」おがえりかずま | 【QMA復習】 https://seethefun.net/%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%95%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%a4%e3%83%ab/24977/

タイピング
報道写真家として知られるロバート・キャパが亡くなった国はベトナムですが
「日本のキャパ」と呼ばれた沢田教一が亡くなった国は◯◯◯◯◯?◯の国名を答えなさい
カンボジア(答)

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作品『安全への逃避』で
ピュリッツァー賞を受賞した
日本の写真家は沢田教一である
◯(答)
引用元:ベトナム | 【QMA復習】 https://seethefun.net/%e6%96%87%e7%b3%bb%e5%ad%a6%e5%95%8f/43055/

名取 洋之助(なとり ようのすけ、1910年9月3日 – 1962年11月23日)は日本の写真家、編集者。

戦前は1933年に木村伊兵衛、原弘、伊奈信男、岡田桑三らとともに日本工房を設立。翌年、意見の対立により木村、原、伊奈、岡田が脱退し、日本工房は事実上解散となる。その後、太田英茂らの参加を受け、第2次日本工房を立ち上げる。1934年には、対外宣伝誌『NIPPON』を創刊。土門拳、藤本四八などの写真家、山名文夫、河野鷹思、亀倉雄策などのグラフィックデザイナーを用いつつ、従来の日本のレベルをはるかに超えた内容の誌面を提供しつづけた。

戦後は『週刊サンニュース』や岩波写真文庫の編集に携わり、辣腕を振るった。岩波写真文庫は、第1回菊池寛賞を受賞している。

一貫して西欧流の報道写真および編集を定着させようと奮闘し、組写真などを多用することにより、写真でメッセージを伝達するという方向に注力した。逆に芸術的、主観的な写真作品を「お芸術写真」と呼び、その軽蔑を隠すことはなかった。編集者としては自分の意志に基づき写真作品を強引にとりあつかう傾向が強く、歯に衣を着せない物言いとあいまって、写真家と対立することもしばしばあった。例えば、土門との確執などはその典型的な例である。

名取洋之助写真賞[編集]
社団法人日本写真家協会が新進写真家の発掘と活動を奨励するために2005年に創設。主としてドキュメンタリー分野で活動する35歳までの写真家が対象となっている。審査員は3名。
引用元:名取洋之助 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%96%E6%B4%8B%E4%B9%8B%E5%8A%A9

名取洋之助【なとりようのすけ】
写真家。東京生れ。1928年に渡独,グラフィック・デザインなどを学ぶ。1931年,同地でドイツの出版社ウルシュタイン社の契約写真家となる。1933年,同社の特派員として満州を取材後帰国,木村伊兵衛,原弘,伊奈信男らと〈日本工房〉を設立し,報道写真の理念を啓蒙する。いったん解体した〈日本工房〉を翌1934年に再建,対外宣伝誌《NIPPON》を創刊する。1937年,日本初の《ライフ》誌契約写真家となる。1945年に南京で終戦を迎えるまで,報道写真家として主に軍報道部,内閣情報局などの仕事に従事。1947年,日本の《ライフ》を目指して《週刊サンニュース》を創刊。1950年,組写真を利用して編集された新しい出版物として一時代を画した《岩波写真文庫》の編集責任者となり,以降同文庫は1959年までに286冊が刊行される。戦前戦後を通して,写真家であると同時にプロデューサー的な手腕を振るいながら,国際的に活動した。功績を称えて,おもにドキュメンタリー分野で活動する若手写真家を対象とした〈名取洋之助賞〉が,日本写真家協会により2005年創設された。
引用元:名取洋之助(なとりようのすけ)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%90%8D%E5%8F%96%E6%B4%8B%E4%B9%8B%E5%8A%A9-108275

ライフ(Life)はアメリカで発行されていた雑誌。写真を中心とした誌面で「グラフ雑誌」と言われる。

フォトジャーナリズムという文章記事よりも写真を中心に報道・言論を構成しようという考え方はすでにヨーロッパ(特にドイツ)で試みられていた。ライフ誌はカメラマンをスタッフという専属的な所属とし、撮影から記事・レイアウト等の編集のスタイルを一貫させ、「フォト・エッセイ」と称した。第二次世界大戦前から戦後復興期、テレビの本格普及前までが黄金期で、アメリカの思想・政治・外交を世界に魅力的に伝える媒体であった。

無料週刊誌(2004年-2007年)[編集]
2004年10月に無料週刊誌として復活した。新聞折り込みのかたちで約1300万部が発行された。しかし2007年3月26日、厳しい経営事情を背景に、4月20日号を最後に休刊することが発表された。今後はウェブ上にて、同誌の保有する写真約1000万点を閲覧できるようにするなど、引き続きライフのブランドを冠したサービスを継続していくことも同時に発表された。

2008年11月18日、Googleイメージ検索でライフ誌の写真アーカイブの検索が可能になった[1]。
この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人[編集]
ライフが選定した、「Life’s 100 most important people of the second millennium」は以下のとおり。

トーマス・エジソン (アメリカ)
クリストファー・コロンブス (イタリア)
マルティン・ルター (ドイツ)
ガリレオ・ガリレイ (イタリア)
レオナルド・ダ・ヴィンチ (イタリア)
アイザック・ニュートン (イギリス)
フェルディナンド・マゼラン (ポルトガル)
ルイ・パスツール (フランス)
チャールズ・ダーウィン (イギリス)
トーマス・ジェファーソン (アメリカ)
引用元:ライフ (雑誌) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95_(%E9%9B%91%E8%AA%8C)

戦後日本の報道写真家の草分けで、アメリカを代表するグラフジャーナリズム誌だった「LIFE」誌で、初の日本人専属写真家として活躍した三木淳(1919-1992)の、生誕100年を記念して、ニコンプラザ新宿THE GALLERY(9月10日~30日)、ニコンプラザ大阪THE GALLERY(10月10日~23日)で企画展『生誕100年記念 三木 淳 写真展 Happy Shooting Every Day of Your Life!』が開催される。

「LIFE」の表紙を飾った、サンフランシスコ講和会議に臨む吉田茂総理のポートレートは有名だ。また朝鮮戦争にも従軍、来日する米写真家に日本製カメラを使わせ、日本がカメラ王国になるきっかけをつくった功労者でもある。しかし、没後27年、いまやその名を知らない人も多い。写真家・三木淳とはどんな男だったのか。

敗戦国日本のプライドを懸けた写真
昭和26(1951)年9月4日から、アメリカ・サンフランシスコ市のオペラハウスに52ヵ国の代表が参集し、第二次世界大戦の対日講和会議が開催された。日本の全権代表は、内閣総理大臣・吉田茂。9月8日、参加国の大半と日本との間で講和条約が締結され、条約が発効する昭和27(1952)年4月28日をもって日本は主権を回復、戦後、長く続いた占領軍による統治に終止符が打たれた。

サンフランシスコ講和会議に先立って発売された、アメリカ最大の発行部数を誇るグラフジャーナリズム誌「LIFE」(1951年9月10日号)の表紙を飾ったのは、葉巻をくわえた吉田総理の、敗戦国の代表らしからぬ堂々たる表情をとらえたポートレートである。
引用元:日本人初の国際的報道写真家が、この国に残した「大いなる功績」(神立 尚紀) | 現代ビジネス | 講談社(1/3) https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67064

三木淳
みきじゅん
(1919―1992)
写真家。岡山県藤戸町(現倉敷市)生まれ。1940年代末から国際的なフォトジャーナリストとして活躍した。10歳ごろより写真撮影に親しむ。慶応義塾大学経済学部在学中から写真家を志し、1941年(昭和16)国際報道工芸(1939年、名取洋之助が創設した第二次日本工房の後身)美術部長でグラフィック・デザイナーの亀倉雄策の指導を受け、写真家土門拳の助手を務める。1943年大学を卒業、貿易会社に入社するが、直後に陸軍へ入隊。第二次世界大戦終結後、1947年名取の誘いを受け、友人の写真家稲村隆正(たかまさ)(1923―1989)とともにサンニュースフォトス社に入社、極東軍事裁判の撮影を担当する。同社から創刊されたグラフ雑誌『週刊サンニュース』に東京の停電の様子、銀座、職業安定所、常磐(じょうばん)炭鉱などを取材したドキュメントを多数発表。
 1948年INP通信社に移籍。さらに1949年アメリカの国際的グラフ誌『ライフ』を発行するタイムライフ社東京支局の依頼で、同社専属写真家カール・マイダンスCarl Mydansの代役としてシベリア抑留からの引き揚げ再開で帰国した元陸軍兵たちを撮影。このルポルタージュが『ライフ』誌に掲載されたことをきっかけに、同年、タイムライフ社に正式入社。以後1957年に退社するまで同誌へ数々のルポルタージュを発表した。なかでも1951年のサンフランシスコ講和条約調印当時に首相吉田茂を撮影し、同誌表紙を飾った写真は特によく知られている。また、1950年に自らの提唱により写真家グループ「集団フォト」を組織、顧問に土門拳、木村伊兵衛を迎え、大竹省二、佐伯義勝(1927―2012)、田沼武能(たけよし)らが参加。翌年、集団フォト第1回展に際し、フランス人写真家アンリ・カルチエ・ブレッソンの作品を初めて国内に紹介し大きな反響を呼ぶなど、海外のフォトジャーナリストたちと日本の写真界の交流の推進にも貢献した。
引用元:三木淳(みき じゅん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E6%B7%B3-1112100