今日限り、明日は分からぬ

「懈怠比丘不期明日」という言葉
に由来する、茶道の流派、裏千家
を象徴する茶室の名前は◯◯庵?
◯の漢字をひらがなで答えなさい
こんにち(答)
26%
今日庵


『宙ぶらりんの男』でデビュー
『その日をつかめ』
『フンボルトの贈り物』
1976ノーベル文学賞受賞
ジャック・ケロアック
トニ・モリソン
ソール・ベロー(答)
アーサー・ミラー
42%

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ラテン語で「一日を摘め」という
意味の言葉で、現在では
「今を大事に」という意味で
使われているのは?
ペィカル・ムエデ
カルペ・ディエム(答)
引用元:ソール・ベロー https://seethefun.net/%e6%96%87%e7%b3%bb%e5%ad%a6%e5%95%8f/43463/

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茶室の入り口にある
「つくばい」はどっち?
(画像選択肢)
A躙口(にじりぐち)
B蹲居(つくばい)(答)

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茶室に入る前に手を清める
これを何という?
つくばい(答)
「蹲居」


元々は水の音で獣を追い払うために用いられてきた装置で現在では日本庭園の装飾にも用いられるのは?
そうず(答)
添水

タイピング
茶室で、にじり口とは違って立ったまま入れる二枚障子出入り口は◯◯口?
きにん(答)
「貴人口」

エフェクト
千利休が初めて茶室に取り入れました
躙口
にじりぐち(答)
引用元:「つくばい」(蹲居)茶室へ行く前に清める道具 「躙口」(にじりぐち) https://seethefun.net/%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%95%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%a4%e3%83%ab/11790/

裏千家(うらせんけ)は、茶道流派の一つ。「裏千家」の語は、家元とその家族らで構成される宗家を指すことも、「一般財団法人今日庵」などの法人組織を指すことも、弟子・門下生を含む流派組織を指すこともある。茶道諸流派中最大の流派の一つである。

裏千家の名称は、千利休からの家督を継いだ本家の表千家(不審菴)に対し、今日庵が通りからみて裏にある意。宗家は京都市上京区小川寺之内上ルにあり、表千家宗家と隣接している。その茶室・今日庵(こんにちあん)は裏千家の代名詞でもある。なお、今日庵の由来は、宗旦が亭主をつとめた茶席に遅れた清巌和尚に、所用があるとして留守にした宗旦が明日の来席を請うた際に残した清巌和尚の「懈怠比丘不期明日」の書き付けから。「千家」といえば本来、本家の表千家のことであったが、裏千家の活躍もあり、近年になって分家である武者小路千家と併せて「三千家」というようになった。
引用元:裏千家 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%8F%E5%8D%83%E5%AE%B6

◆清巌と宗旦ということになると、すぐ思い浮かぶのは今日庵の庵号となった墨蹟の逸話です。清巌和尚の大きな横物で「懈怠比丘不期明日」と認めた墨蹟があります。同じ大きさで宗旦が「邂逅比丘不期明日」と書いた二幅が今も今日庵に残されています。なぜこの二幅の墨蹟が生まれたのか。ここから先は伝承として伝わっている話で、古い文献があるわけではありません。約束の時間に遅れてきた清巌和尚が「怠けものの坊主に明日は期待できない」と我身になぞらえて宗旦の境地を尋ねました。すると宗旦は「只今あなたにお目にかかったのだから明日に期待するものはない」と切り返したのです。いかにも禅僧らしい機知に富んだ応酬です。明日ではなく今日只今、ということで「今日庵」という庵号が誕生したと伝えられます。◆

「懈怠比丘不期明日」(けたいのびくみょうにちをきせず)
「邂逅比丘不期明日」(かいこうのびくみょうにちをきせず)

「今日庵」のルーツとして良く語られるのは、もっぱら清巌和尚の墨蹟の方で、宗旦の墨蹟はあまり触れられてはいないようです。
なお、二幅とも現在は裏千家「今日庵」が所蔵していますが、元は二幅とも住友家にあったものだそうです。
引用元:宗旦槿と「懈怠比丘不期明日」 | 茶香逍遥 http://watayax.com/2017/07/03/soutannmukuge/

京都市上京区にある小川通は南北に走る閑静な道です。時折、静寂を破るようにして、小鳥のさえずる声が響き渡ります。裏千家の表門である兜門(かぶともん)は、この小川通に面して、個性的な風貌を見せています。数寄屋(すきや)造りの侘(わ)びた風情をたたえるこの門をくぐった先にあるのは、利休を祖父に持つ三代宗旦(そうたん)が建てた茶室「今日庵」。その名称となった逸話をご存じですか?

*  *  *

宗旦は不審菴(ふしんあん)を三男の江岑宗左(こうしん・そうさ)に譲り、隠居所として今日庵を建てました。席開きの日、参禅の師である清巌(せいがん)和尚を招いたのですが、刻限を過ぎても和尚は現れません。やむなく「明日おいでください」という伝言を残してほかの用事で出かけました。

宗旦の留守の間に和尚がやってきて、茶室の腰張りに「懈怠比丘不期明日(けたいのびくみょうにちをきせず)」と書きつけて帰りました。「怠け者の私は明日と言われても来られるかどうかわかりません」という意味から、宗旦はこの茶室を今日庵と名付けたと、いわれています。
引用元:裏千家の代名詞「今日庵」 名前の由来となった逸話とは | NHKテキストビュー http://textview.jp/post/hobby/12157

清巌宗謂
せいがんそうい
(1588―1661)

江戸初期の臨済(りんざい)宗の僧。近江(おうみ)(滋賀県)大石の生まれで、俗姓は奥村氏。字(あざな)を清巌、自笑子(じしょうし)あるいは孤陋子(ころうし)と号した。9歳で京都・大徳寺の玉浦紹(ぎょくほじょうそう)(1546―1613)について出家し、玉浦の没後は賢谷宗良(けんこくそうりょう)(1557―1621)の弟子となってその法を嗣(つ)いだ。1625年(寛永2)大徳寺170世となる。細川忠興(ほそかわただおき)(三斎)と親しく、三斎創建の高桐(こうとう)院をはじめ、大徳寺の塔頭(たっちゅう)や堺(さかい)(大阪府)および九州各地の諸寺を歴住した。1649年(慶安2)には幕府の命により、品川東海寺の住持となる。晩年、後西(ごさい)天皇より清浄本然禅師(しょうじょうほんねんぜんじ)の号を賜った。千宗旦(せんのそうたん)参禅の師で、茶道に通じ、書画に秀で、その一行書(いちぎょうしょ)は茶席の掛物(かけもの)として大いに愛好された。古渓宗陳(こけいそうちん)(1532―1597)の語録『蒲庵稿(ほあんこう)』の編者としても知られ、また茶の湯に関する『清巌禅師十八ヶ条』を残している。[松原 茂]
引用元:清巌宗謂(せいがんそうい)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B8%85%E5%B7%8C%E5%AE%97%E8%AC%82-1553144