「金光教」川手文治郎「天理教」中山みき「黒住教」黒住宗忠


新興宗教の団体
金光教の創設者は
中山みきである
×(答)
◯川手文治郎
かわてぶんじろう
57%



日本の新宗教で
「金光教」を創始したのは
川手文次郎ですが

「黒住教」を創始したのは
黒住◯◯?
◯の名前をひらがなで答えなさい
むねただ(答)
黒住宗忠

金光教(こんこうきょう)は、日本の新宗教。教派神道連合会に属し、戦前の神道十三派の一つ。

>安政6年(1859年)、備中国浅口郡大谷村にて赤沢文治(川手文治郎)、後の金光大神(こんこうだいじん)が開いた創唱宗教である。同じ江戸時代末期に開かれた黒住教、天理教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられる。
現在の本拠地は岡山県浅口市金光町大谷である(旧町名由来の金光町という地名は金光教の本部があることから付けられた)。
祭神は天地金乃神(てんちかねのかみ)と生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)である。
教主は金光平輝(こんこうへいき、五代金光様)、教務総長は西川良典(にしかわよしのり)[1]である。日本を中心に約1600の教会・布教所、45万人の信者を有する。
引用元:金光教 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%85%89%E6%95%99

朝日日本歴史人物事典の解説
川手文治郎

没年:明治16.10.10(1883)
生年:文化11.8.16(1814.9.29)
明治初期の宗教家,金光教の教祖。備中国浅口郡占見村(岡山県浅口郡金光町)に農民の香取十平と志もの次男として生まれる。川手家の養子となり,川手文治郎と名を改め,養父の遺言により,赤沢に改姓し,のちには文治と改める。安政2(1855)年,42歳のとき,喉の病気にかかり,平癒の祈祷が行われ,家の新築,移転による金神(元来陰陽家が祭った暦神)に対する無礼が病気の原因だとする託宣が下った。同4年,金神を祭る実弟香取繁右衛門のもとに通うようになり,体調を崩した妊娠中の妻が金神のおかげで治り,金神への信心を深める。翌年には,神の知らせを受けるようになり,「金神の一乃弟子」として「文治大明神」と名乗るように命じられた。同6年に,家業をやめ,神の言葉の取り次ぎへの専念を命じられ,以後,24年間にわたり,家を広前(神殿)として神前に座り続けて,神の教えを伝えた。
引用元:川手文治郎(かわて ぶんじろう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B7%9D%E6%89%8B%E6%96%87%E6%B2%BB%E9%83%8E-1067996

黒住 宗忠 (くろずみ むねただ、安永9年11月26日(1780年12月21日) – 嘉永3年2月25日(1850年4月7日)) は、神道系の新宗教のさきがけとなる黒住教を開いた幕末の神道家。 備前の神社の神職だった。
引用元:黒住宗忠 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E4%BD%8F%E5%AE%97%E5%BF%A0

中山 美支(なかやま みき、寛政10年4月18日(1798年6月2日) – 明治20年(1887年)2月18日)は、日本の宗教家、天理教教祖。明治11年11月1日に天理教教会本部より出版された「みかぐらうた」複製本の初版では著者は「奈良県平民 故中山美支」となっているが[1]、現在の天理教では「中山みき」が公式表記とされる[2]。天理教では、「教祖」と書いて「おやさま」と呼称している。
引用元:中山みき – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E3%81%BF%E3%81%8D