「建水」湯を捨てる茶道具「こぼし」 茶湯の三大宗匠「津田宗及」「今井宗久」「千利休」

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茶の道具
金属製が多い
別名「こぼし」
茶碗を清めた湯を捨てる道具
茶筅
懐紙
茶杓
建水(答)けんすい


茶の道具
木製で漆塗り
ある植物の実に似ている
抹茶を入れる容器
棗(答)なつめ

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次のうち、「茶湯の三大宗匠」
と称された戦国時代の茶人を
全て選びなさい
津田宗及(答)つだそうきゅう(ぎゅう)
武野紹鴎 たけのじょうおう
今井宗久(答)いまいそうきゅう
千利休(答)せんのりきゅう

3人とも「きゅう」がつく方ですね。

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建水とは、茶碗(ちゃわん)をすすいだ水をすてるためのうつわで、「こぼし」ともよばれています。

金属類(かなもの)、陶磁器類(やきもの)、木製品(き)などでつくられています。いちばん代表的(だいひょうてき)な形(かたち)は「えふご型」とよばれるものです。
引用元:茶道具 建水 http://www.h4.dion.ne.jp/~i-kids/15newkensui.htm

建水(けんすい)とは、茶道具の一つで、茶碗を清めたり温めたりしたときに使った湯や水を捨てるために使うもの。「こぼし」とも言う。材質は陶器、磁器、曲物(木地物)、唐銅や砂張(さはり)(金属器)、近年はアクリル製など軽くて丈夫な物も使用することもある。形状は筒型や桶型、壺型、碗型など、湯を捨てやすいように口は大きく開いている物がほとんどである。
>煎茶道では「湯こぼし」とも言われる。材質は金属器が多い。形状は筒型の物が多い。
抹茶用の物との相違点としては、口の部分に蓋のような水切りが付いていることが多い点が挙げられる。ただし流派によっては、抹茶(茶道)用の建水をそのまま使用する流派もある。
引用元:建水 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%B0%B4

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
建水
けんすい

茶器の一種。茶席で茶碗(ちゃわん)を清めた湯や水を捨てる器。通称「こぼし」。古くは水覆、水翻、水下(みずこぼし)とも書いた。もともと台子皆具(だいすかいぐ)の一つとして、中に蓋置(ふたおき)を入れて飾った。素材は唐銅(からかね)であった。
引用元:建水(けんすい)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%BB%BA%E6%B0%B4-60744

棗(なつめ)は、茶器の一種で、抹茶を入れるのに用いる木製漆塗りの蓋物容器である。植物のナツメの実に形が似ていることから、その名が付いたとされる。
現在では濃茶を入れる陶器製の茶入(濃茶器)に対して、薄茶を入れる塗物の器を薄茶器(薄器)と呼ぶが、棗がこの薄茶器の総称として用いられる場合も多い(その歴史に関しては薄茶器の項目を参照)。
引用元:棗 (茶器) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%97_(%E8%8C%B6%E5%99%A8)
引用元:棗 (茶器) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%97_(%E8%8C%B6%E5%99%A8)

茶筅(ちゃせん)または茶筌とは、茶道において抹茶を点てるのに使用する茶道具のひとつで、湯を加えた抹茶を茶碗の中でかき回して均一に分散させるための道具。抹茶といえばこんもりと泡を立てた姿が有名であるために、泡だて器の一種と考えられることも多いが、泡を立てるための道具ではない。竹製のものがほとんどで、現代ではアウトドア用の金属製・プラスチック製のものもある。
引用元:茶筅 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E7%AD%85

茶杓(ちゃしゃく、chashaku、tea scoop)は、緑茶(特に抹茶)を点てるのに使用する茶道具のひとつ。抹茶を容器(茶器)からすくって茶碗に入れるための匙。普段は筒に収められており、この筒に「銘」(その茶杓に付けられた固有の名前)を記す。
古くは茶事・茶会のたびに作ることがなされており、そのため保存しておく習慣がなく、古い時代のものはあまり残されてはいないが、千利休が死の間際に作って古田織部に託したいわゆる「泪の茶杓」が有名(現在徳川美術館所蔵)。
引用元:茶杓 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E6%9D%93

津田 宗及(つだ そうぎゅう、生年不詳 – 天正19年4月20日(1591年6月11日))は、安土桃山時代の堺の商人、茶人。「天王寺屋宗及」とも。名は助五郎、号は天信、幽更斎。千利休・今井宗久とともに茶湯の天下三宗匠と称せられた。
引用元:津田宗及 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E5%AE%97%E5%8F%8A

今井 宗久(いまい そうきゅう、永正17年(1520年) – 文禄2年8月5日(1593年8月31日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の商人、茶人。今井出羽守宗慶の三男の子。今井宗薫の父。名は兼員、初名を久秀、通称を彦八郎のち彦右衛門。号は昨夢庵寿林。屋号は納屋。薙髪の後に宗久と名乗った。千利休・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられた。
引用元:今井宗久 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E5%AE%97%E4%B9%85

千利休(せん の りきゅう、せん りきゅう、大永2年(1522年) – 天正19年2月28日(1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。
わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。子孫は茶道の三千家として続いている。天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に齟齬を生じ、最後は切腹へと追い込まれた。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あって定まっていない。
引用元:千利休 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91

たけの‐じょうおう〔‐ゼウオウ〕【武野紹鴎】

[1502~1555]室町後期の富商・茶人。堺の人。号、一閑居士・大黒庵。歌学を三条西実隆に学ぶ。茶の湯では村田珠光の孫弟子にあたり、佗(わ)びの境地を確立、千利休・津田宗及・今井宗久らの門弟を養成した。
引用元:武野紹鴎(たけの じょうおう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A6%E9%87%8E%E7%B4%B9%E9%B4%8E-18677