【アトランタ】ケー・スンヒ

女子柔道選手の谷亮子が
バルセロナ五輪の女子柔道48kg級
決勝戦で敗れた相手は?
湯礼紅

ノワク
ジョシネ
ケー・スンヒ
30%

谷 亮子(たに りょうこ、1975年(昭和50年)9月6日 – )は、日本の柔道家。旧姓:田村(たむら)。柔道選手としてはオリンピックで2度、世界選手権で7度金メダルを獲得した。2018年1月には、女子としては極めて異例の飛び昇段で六段になった[1]。

2010年の第22回参議院議員通常選挙で民主党の比例候補として当選し参議院議員として政界入り。民主党スポーツ議員連盟会長、日本未来の党幹事(遊説担当)、生活の党と山本太郎となかまたち副代表兼参議院幹事長などを歴任した後、改選となる2016年の第24回参議院議員通常選挙には立候補しなかった。

帝京大学文学部卒業、日本体育大学大学院修了。夫は谷佳知(野球選手)である。

バルセロナオリンピック出場
8月のバルセロナオリンピックでは初戦でキューバのアマリリス・サボンと対戦すると、効果を先取されるも大内刈や小内刈などで有効2つと効果1つを取り返して初戦を突破した。続く2回戦ではブラジルのアンドレア・ロドリゲスから有効2つを奪った後に崩上四方固で破ると、準々決勝では李愛月に内股で一本勝ちした。準決勝では前年の世界選手権で敗れたブリッグスを素早い動きで翻弄して攻め立てると、ブリッグスはその動きについて来れずに次々と反則ポイントが与えられたのみならず、右肩まで脱臼した。その後も容赦なく攻め続けると終盤にはブリッグスを反則負けに追いやった。

決勝では世界チャンピオンであるフランスのセシル・ノバックと対戦すると、開始30秒過ぎに素早い動きで相手を前方に引き落とすが、その際に両足を掴まれて双手刈で効果を取られた。その後、内股や小内刈で盛んに攻め込むもののポイントは取れず、3分過ぎに支え釣り込み足を踵返で切り返されて2つ目の効果を取られると、反撃及ばず敗れて銀メダルに終わった。但し、オリンピックの柔道競技においては16歳331日の史上最年少メダリストになった。ノバックはフランス女子ナショナルチームの監督である村上清に田村の弱点は技を仕掛けて戻る際に重心がふらつくところだとの指摘を受け、この試合でもそのアドバイスに従ってポイントを稼いだ。
引用元:谷亮子 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E4%BA%AE%E5%AD%90

村上 清(むらかみ きよし、1950年7月8日 -)は京都府出身の日本の柔道家。段位は8段。現在はイタリアナショナルチームのゼネラルマネージャーを務めている[1][2]。

1988年のソウルオリンピックでは71kg級のマルク・アレクサンドルを金メダルへ導いた。また、この当時ジュニアの有望選手とみなされていた、後のオリンピック金メダリストである95kg超級のダビド・ドゥイエにも基礎をみっちり叩き込んでいたという[2]。その後女子ナショナルチームの監督に就任すると、1992年のバルセロナオリンピックでは48kg級のセシル・ノバックと61kg級のカトリーヌ・フローリに金メダルをもたらした[2][3]。とりわけノバックに関しては、ライバルの田村亮子を徹底して研究した成果が現れた。1990年8月にまだ国際的には無名だった城香中学3年生の田村が日本代表選手団の一員としてフランス遠征した時の練習試合で、トップレベルの選手を軽く投げ飛ばすなど5戦5勝の活躍をしたことに衝撃を受けた村上は、収録していた田村の試合のビデオを徹底的に分析することになった。その結果、動きがとても早い分、技を仕掛けて戻る際に重心がふらつく弱点を見出した。バルセロナオリンピックの決勝で田村と対戦したノバックもその分析に基づいて、田村が技を仕掛けた直後を狙って巧みに踵返で効果を奪うなどして勝利することになった[3]。
引用元:村上清 (柔道) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%B8%85_(%E6%9F%94%E9%81%93)

ケー・スンヒ(桂 順姬、Kye Sun-hi、1979年8月2日 – )は、北朝鮮・平壌出身の女子柔道家。身長158cm。1996年アトランタオリンピック柔道女子48kg級金メダリスト。48kg級、52kg級、57kg級の3階級で活躍した[1][2]。 北朝鮮国内においては最高勲章である金日成勲章と労働英雄の称号を受けている[3]。

牡丹峰高級学校に在籍していた1996年には、ワイルドカードにより16歳で初出場したアトランタオリンピック女子柔道48キロ級で、この階級で84連勝を記録していた、田村亮子(のちの谷亮子)を破って金メダルを獲得し[1][4]、世界を驚かせた。帰国後金正日から「人民体育人」の称号と豪華な乗用車や高級アパート、そして朝鮮労働党の党員資格を贈られた。また、ケーの金メダル獲得を記念した切手が発行されたが、ガッツポーズをするケーに加えて、その横で愕然とする田村も写っているという、日本への優越感を露骨に描写した切手となっている[5]。

なお、この決勝戦でケーが「上衣を左前に着てはならない」という暗黙のルールを破ったため、それまではルールに記されていなかった柔道着の着方について国際ルールで明記されるようになった。田村は決勝戦で組み手を取りにくそうにしており、このことと、そしてまったくデータが存在していなかったことが田村を破ったことに大いに影響を与えていると考えられる[6][7]。
引用元:ケー・スンヒ – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%B3%E3%83%92

湯 礼紅(とう れいこう、Tang Li Hong、女性)は、中国の柔道選手。階級は48kg級と52kg級[1]。

人物
1991年に大阪で開催されたアジア選手権48kg級では初戦で田村亮子と対戦して、背負投と大外刈で有効2つを取って快勝すると、その後も勝ち進んで優勝した[2]。しかし、1992年のバルセロナオリンピックには李愛月との代表争いに敗れて出場できなかった。福岡国際では田村と再戦すると、3分過ぎまで優勢に試合を進めながら終盤に払腰で一本負けを喫して3位だった[3]。1993年に地元上海で開催された東アジア大会では決勝で田村と対戦すると、背負投で有効を取られて敗れた。アジア選手権では決勝で長井淳子を破って2連覇を果たした。しかし大会後のドーピング検査で、尿から筋肉増強剤などの使用を隠す作用を有する禁止薬物のフロセミドが検出されていたことが、1994年になって発覚した。そのためIJFから大会記録の抹消と2年間の出場停止処分を科せられることになった[4][5][6][7]。
引用元:湯礼紅 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E7%A4%BC%E7%B4%85

フレデリク・ジョシネ(Frédérique Jossinet 1975年12月16日- )は、フランスのセーヌ=サン=ドニ県出身の元女子柔道選手。身長160cm。アテネオリンピックの銀メダリストでもある[1] [2]。

人物
1993年のフランス国際で初対戦して以来、田村亮子の有力なライバルの一人であったが、フランス国内では同階級のサラ・ニシロ=ロッソの後塵を拝していた時期もあってか、世界レベルで本格的に台頭してきたのは20代後半になってからであった[2]。2001年地元フランスのパリで行われたヨーロッパ柔道選手権大会で金メダルを獲得した[2]。2003年大阪で行われた世界柔道選手権大会で日本の田村と対戦し敗れて銀メダルに終わる[2]。さらに2004年のアテネオリンピックの女子48kg以下級決勝でも谷(2003年12月に田村より改姓)と対戦したがこれも敗れて銀メダルに終わった[1][3]。
引用元:フレデリク・ジョシネ – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%B7%E3%83%8D