【投手から二塁手へ】

1983年に東洋大学から中日に入団
上尾高校出身
1997年にロッテで現役を引退
兄の薫もプロ野球選手
音重鎮
宇野勝
川又米利
仁村徹(答)
66%

星陵高校出身
新日鉄名古屋から中日に入団
1991年から1995年までは広島在籍
斎藤のノーヒットノーランを阻止
音重鎮(答)
おとしげしげき

1994年ロッテで引退
1976年ドラフト3位で中日入団
1984年セ・リーグ本塁打王
内野フライをヘディング事件
宇野勝(答)

仁村 徹(にむら とおる、1961年12月26日 – )は、埼玉県川越市出身の元プロ野球選手(内野手、投手)、プロ野球コーチ、

実兄は元プロ野球選手の仁村薫で、現役時代は中日ドラゴンズで一緒にプレーした経験がある(当時、スコアボードなどには「仁村兄(=薫)」「仁村弟(=徹)」と表記されていた)。現在は中日ドラゴンズの二軍監督。

来歴[編集]
上尾高校では、右下手投げのエースとして活躍。1979年春季関東大会決勝に進み、銚子商に惜敗するが好投手として注目される。同年夏の甲子園に出場。1回戦で浪商と対戦、9回2死まで2-0とリードしながら勝利目前で牛島和彦に同点2ランを打たれ、延長11回敗北[1]。このときの試合は今も甲子園史上に残る名試合として語り継がれている。

1983年のドラフト2位で中日に入団。1年目の1984年に投手として初登板初勝利を挙げた(このときリリーフで勝利をアシストしたのはかつてのライバル、牛島であった)。首脳陣は翌シーズンから打者転向を予定しており、投手としての最後に記念登板で起用したところ、打線の思わぬ援護で勝利投手となった。

投手としては前述の1試合の出場のみで、1986年に二塁手に転向。1987年に同年監督に就任した星野仙一に起用され[2]、122試合に出場してレギュラーとして定着。同年は生涯唯一の規定打席(17位、打率.287)に達する。1988年は左ヒザの故障で出遅れ92試合の出場、ポジションも二塁手にコンバートされた宇野勝の存在もあって三塁手がメインになる。規定打席には届かなかったものの打率.306、7本塁打、52打点の好成績を挙げ、チームの優勝に大きく貢献した。

引退後[編集]
引退後は古巣・中日で1998年から2001年まで二軍監督を務め、2000年には日本一に導いた。2002年には一軍ヘッドコーチ、2003年から2004年は一軍内野守備コーチを務め、2005年から5年間スカウト(関東・東海地区担当)となった。また、そのかたわらCBCのゲスト解説者も務めていた(2009年まで)。

2010年より東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍監督に就任。しかし、7月13日付で慢性硬膜下血腫のため休養。手術を受け、7月26日の大学日本代表 対 NPBフレッシュ選抜から復帰した。その後、2011年1月1日付で一軍作戦コーチに就任した。、2012年は二軍監督を務めた。2013年からは一軍チーフコーチとなり、球団初のリーグ優勝と日本一に貢献した。2015年は二軍チーフコーチ、2016年は一軍ヘッドコーチを務め、シーズン終了後来季の契約を結ばないと発表された[3]。

2017年からは2年間東北楽天ゴールデンイーグルスのスカウト部副部長を務める[4]。2018年10月28日退団[5]。2019年は東海テレビ・J SPORTS・東海ラジオの野球解説者、中日スポーツ・東京中日スポーツの野球評論家に就任する。

2020年からは中日ドラゴンズの二軍監督に就任することが発表された[6]。背番号は72。
引用元:仁村徹 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E6%9D%91%E5%BE%B9

仁村 薫(にむら かおる、1959年5月9日 – )は、埼玉県川越市出身の元プロ野球選手(外野手)。

弟は自身と同じ元プロ野球選手の仁村徹で、現役時代は中日で一緒にプレーした経験がある(当時はスコアボードなどには「仁村兄(=薫)」「仁村弟(=徹)」と表記されていた)。

引退後[編集]
引退後は家業(農業)を継ぎながら、1991年から1994年まで、名古屋テレビ・東海ラジオで野球解説者を務めた。

1995年、巨人の二軍外野守備・走塁コーチに就任。1997年オフに巨人を退団後、中日の二軍野手総合コーチに就任。同時に二軍監督となった弟を補佐した。1999年は一軍外野守備・走塁コーチとして、その年のリーグ優勝に貢献。その後、2000年には二軍打撃兼外野守備・走塁コーチ、2001年から2002年はフィジカルコーチを歴任した。2002年のオフに一旦退団したが、2003年オフ落合博満の監督就任に伴い復帰。肩書きはトレーニングコーチ。情熱と闘志の人で、落合監督とは現役時代に中日で一緒にプレーし、お互いを熟知する仲であった。“トーキングコーチ”のニックネームがついたほど選手とコミュニケーションを取るのが得意であった。またベンチでは相手チームを野次る事に徹し野次将軍としても名を馳せた。2007年10月31日付で退団。荒木雅博は2000安打の際弟徹と共に仁村を恩人として名前を挙げ「土台を作ってくれた。2軍の5年間が大きかった」と述べている[1]。その後、社会人野球・所沢グリーンベースボールクラブコーチ、2010年はテレビ愛知で野球解説者を歴任。

2010年11月1日、弟・徹が二軍監督を務める東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍総合コーチ就任が発表されたが、2011年1月1日付で徹が一軍作戦コーチに異動となったのに伴い、自身も同日付で二軍監督に異動となった。2012年、新設された野手総合兼巡回コーチに転身したが、同年のシーズン終了をもって退団。その後は家業に専念している[2][3]。
引用元:仁村薫 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E6%9D%91%E8%96%AB