笠谷幸生


1976年のインスブルック冬季五輪
で日本選手団の主将を務めたのは
コルティナダンペッツォ五輪の
銀メダリスト・猪谷千春である
×(答)
◯笠谷幸生
49%

1976年インスブルックオリンピックの日本選手団は、1976年2月4日から2月15日まで開催された1976年インスブルックオリンピック(冬季)の日本選手団、およびその競技結果。選手所属は1976年当時のもの。

概要
人員:72人(選手57人、役員15人)
主将:笠谷幸生(スキージャンプ)
旗手:鈴木正樹(スピードスケート)
結団式:1月19日(岸記念体育会館)
解団式:2月20日(岸記念体育会館)
引用元:1976年インスブルックオリンピックの日本選手団 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/1976%E5%B9%B4%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%81%B8%E6%89%8B%E5%9B%A3

笠谷 幸生(かさや ゆきお、1943年8月17日 – )は、北海道後志支庁余市郡大江村(現在の仁木町)出身のスキージャンプ選手。余市高校-明治大学を経てニッカウヰスキーに所属していた。2003年紫綬褒章。笠谷昌生は実兄。

札幌オリンピックでは2月6日の70m級(宮の森ジャンプ競技場)で1本目に84mの最長不倒で首位に立つと2本目はやや失敗気味ながら79mを飛んで金メダルを獲得、銀の金野昭次、銅の青地清二と共に表彰台を独占し、日の丸飛行隊と呼ばれた(この時実況を担当したNHKの北出清五郎アナウンサーは、「さぁ笠谷、金メダルへのジャンプ!……飛んだ決まった!!見事なジャンプ!!」という名ゼリフを残している)。また、90m級は1本目106mで2位につけるも2本目は91m飛べば逆転という場面ながら横からの突風に煽られて85mに終わり7位とメダルを逃している。

1974年、ニッカウヰスキー札幌支店販売促進課へ異動。 1976年のインスブルックオリンピック後も現役続行の意思を示していたが、当時兼任していたコーチ業に専念することとし、1976年10月、現役引退。
引用元:笠谷幸生 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E8%B0%B7%E5%B9%B8%E7%94%9F

猪谷 千春(いがや ちはる、1931年5月20日 – )は、日本のアルペンスキー選手、実業家。日本人初の冬季オリンピックメダリスト(2018年3月現在、日本人唯一の冬季オリンピックアルペンスキーメダリスト)。引退後はAIU保険会社で実業家として活躍しつつ、国際オリンピック委員会(IOC)副会長など、オリンピック・スポーツ関連団体での要職を歴任した。

コルチナ・ダンペッツォオリンピック出場
オスロオリンピック後、猪谷はスターから全米アルペン競技選手権に招待され、2位に入賞する[1]。猪谷はその後日本に戻り立教大学に入学していたが[1]、1953年、スターの支援により、アメリカのダートマス大学に留学し、勉学に励む傍ら、より良い環境でスキーの練習を続けることとなった[3]。

ダートマス大学では、期末試験で全教科の平均点が60点を超えていなければ課外活動に参加できないというペナルティがあった[3]。そのため猪谷は、筋力トレーニングをしながら教科書を読んだり、スキーのコースを覚える記憶力を高めるため、ノートを取らずに授業を受け夜に講義内容を書き出すトレーニングを行ったりと、勉学とトレーニングを両立する様々な方法を考え出した[3][9]。その結果、猪谷は、スイスのアーデルボーデンで開催されたワールドカップにおいて、回転競技で金メダルを獲得するなど、欧州の大会でも実力を発揮し、注目を集める選手となった[10][11]。

猪谷はダートマス大学留学中、日本での競技大会などに参加できなかったため、全日本スキー連盟からは日本代表入りを疑問視する声もあったものの、関係者の尽力によりコルチナ・ダンペッツォオリンピック日本代表に選ばれることができた[9]。猪谷は滑降、回転、大回転に出場、滑降では失格となったが[12]、大回転では12位[13]、そして回転では銀メダルを獲得した[14]。このメダルは冬季オリンピックで日本代表選手が獲得した初めてのメダルであるとともに、欧州以外からの出場選手がアルペンスキー競技で獲得した初めてのメダルともなった[9]。

実業家への転身
猪谷はAIUのニューヨーク本社で2年間の研修を受けた後、1961年、AIU日本支社の傷害保険部初代部長に就任した[21]。猪谷はビジネスの世界に進むにあたり、45歳までにどこかの社長になることを目標としており[1]、AIUに入社したのは、学閥や天下りなどの影響のない外資系企業であれば、その目標を叶えやすいと考えたためであった[21]。

当時、日本の消費者の間では傷害保険という概念自体が浸透しておらず、また戦前に加入していた保険が第二次世界大戦の終戦とともに無価値になったという記憶もまだ新しかったため、AIUの商品は消費者に簡単には受け入れられなかった。猪谷は、消費者の間にあるアメリカ文化への憧れを利用し、AIUがアメリカの会社であることを強調してみたり、逆にAIUのマニュアルの修正や日本固有の商品開発といった、日本の消費者に合わせるためのローカライズに力を入れてみたりと、様々な営業活動を行い、AIUの商品の普及に努めた。こうした活動が評価され、1978年、猪谷は47歳で、AIUグループの会社であるアメリカンホーム保険会社の社長に就任する[21]。

スポーツ振興の世界へ
IOCでの活動
1980年、猪谷は、当時国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めていた竹田恆徳より、自らの後任としてIOC委員を務めてほしいという打診を受ける。アメリカンホーム保険会社社長として多忙を極めていた猪谷はこの打診を辞退するが、竹田からの熱心な説得に折れ、委員就任を承諾、1982年にIOC委員に就任した[1]。IOC委員業務の負荷を理由に、猪谷がアメリカンホーム保険会社を退職したいと申し出たところ、AIUグループは猪谷の事情に配慮し、猪谷を退職させるのではなく、グループの別会社に異動させた[1]。

委員としては1994年の冬季オリンピック準備のための研究・評価委員会、第12回オリンピックコングレス準備委員会など多数の委員会の委員を歴任した[22]。開催地候補都市の評価を行う評価委員会は、猪谷の尽力により設立されたものである[21]。1987年から1991年までと1996年から2000年までは理事を務め[22][23]、ドーピング問題への対応などに力を入れる[24]。2005年から2009年まではIOC副会長を務めた[22][23]。2011年12月、80歳定年制によりIOC委員を退任し[25]、2012年から名誉委員に就任[22]、同年、それまでの功績を讃えオリンピック・オーダー銀章を受章する[22][26]。

この間、1998年の長野オリンピックの招致のため、30カ国以上のIOC委員を訪問するなど奔走し、招致を成功させる。2020年の東京オリンピック招致についても、規則の変更によりIOC委員訪問は認められなくなっていたものの、100カ国以上のIOC委員に架電するなどの協力を行い、招致成功の一助となった[23][24]。
引用元:猪谷千春 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E8%B0%B7%E5%8D%83%E6%98%A5