清水善造


戦前のテニス選手
世界ランク最高4位
三井物産のカルカッタ支店に勤務
1920年のウィンブルドンで準優勝
三木龍善(喜)
佐藤次郎
清水善造(答)
熊谷一弥
36%


戦前のテニス選手
世界ランク最高3位
ウィンブルドン・ダブルス準優勝
マラッカ海峡で投身自殺
佐藤次郎(答)

連想
香川県出身のテニス選手
安宅産業に勤務
日本人で4大大会に初めて優勝
ウィンブルドン混合ダブルス優勝
三木龍喜(答)

連想
早稲田大学出
全米選手権男子ダブルス優勝
戦後すぐから1950年代まで活躍
兄の礼仁もテニス選手
加茂公成(答)かもこうせい

連想
日本にイースタングリップを紹介
日本テニス界黎明期の選手
「庭球訓」で有名
全日本選手権シングルス初代王者
福田雅之助(答)

連想
三菱銀行ニューヨーク支社に勤務
日本テニス界黎明期の選手
アントワープ五輪ダブルスで銀
アントワープ五輪シングルスで銀
熊谷一弥

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全米選手権男子ダブルス優勝
ゼネラル物産に勤務
早稲田大学出身
姉の黎子(れいこ)もテニス選手
宮城淳(答)みやぎあつし
福田雅之助 ふくだまさのすけ
佐藤次郎 さとうじろう
加茂公成 かもこうせい

清水 善造(しみず ぜんぞう, 1891年3月25日 – 1977年4月12日)は、群馬県群馬郡箕郷村(現高崎市)出身の男子テニス選手。

日本人初のウィンブルドン出場者でありベスト4に進出した。全米選手権でもベスト8入りしており、次に全米ベスト8進出を果たす日本人男子は92年後の錦織圭である。

テニス選手としての経歴
清水は第1次世界大戦後の時代に活躍し、熊谷一弥と共に日本テニス界の黎明期を築いた名選手である。清水は旧制高崎中学校時代に軟式テニスと出会い、東京高等商業学校時代に庭球部に入部、東京高商の最上級生時代には主将を務めるなど選手として活動した後、三井物産カルカッタ駐在員時代に硬式テニスに初めて接して、本格的に硬式テニス選手としてプレーするようになる[1]。なお、日本に初めてテニスが紹介されたのは1878年(明治11年)であったが、ボールの製造に必要なゴムが輸入困難であったことから、日本独自の軟球を用いたソフトテニス(軟式テニス)が編み出される。そのため、通常は「テニス」と呼ばれるスポーツに“硬式”テニスという呼称があるのも日本独特の呼び方である。清水は日本における硬式テニスの開拓者として活動した。

清水はカルカッタ時代にベンガル州選手権大会で1915年から1919年まで5年連続優勝、商用で赴いたブエノスアイレス(アルゼンチン)で出場した南米選手権でも優勝するなど実績を積み重ねる[1]。

1920年(大正9年)には長期休暇を利用してイギリスに渡航、イギリス国内の試合に出場しながら6月のウィンブルドン選手権大会に臨む。そのウインブルドン選手権で、清水はいきなり「チャレンジ・ラウンド」(前年優勝者への挑戦権決定戦)の決勝まで勝ち進んだ[1]。
引用元:清水善造 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%96%84%E9%80%A0