小城得達


中央大学出身
メキシコ五輪日本代表DF
東洋工業で活躍
広島県サッカー協会会長
宮本征勝
小城得達(答)
八重樫茂生
松本育夫
49%


古河電気工業で活躍
メキシコ五輪日本代表MF
日本ユース代表の元監督
メキシコ五輪日本代表の主将”
八重樫茂生(答)

連想
早稲田大学出身
メキシコ五輪日本代表DF
1995年に清水エスパルスの監督
鹿島アントラーズの初代監督
宮本征勝(答)

連想
メキシコ五輪日本代表DF
三菱重工で活躍  
元浦和レッズ監督
1981年日本代表監督に就任
森孝慈(答)

連想
地球環境高校を選手権に導く
メキシコ五輪日本代表FW
トヨタカップの解説者  
2013年栃木SC取締役に就任
松本育夫

小城 得達(おぎ ありたつ、1942年12月10日 – )は、日本の元サッカー日本代表選手、指導者。広島県広島市千田町(現・同市中区)出身[1]。

現広島県サッカー協会会長。

人物
昭和40年代(1960年代半ばから1970年代半ば)を代表する名選手の1人であり、釜本邦茂・杉山隆一・宮本輝紀とともに当時のスタープレイヤーの一人[3]。

現役時代はフォワード、その後ハーフバック(ミッドフィルダー)もフルバック(ディフェンダー)もこなしたオールラウンドプレーヤー。東洋工業(サンフレッチェ広島の前身)において第1回日本サッカーリーグ(JSL)から4連覇を達成したチームの中心選手として活躍。また日本代表として1964年東京オリンピックおよび1968年メキシコシティーオリンピックでフル出場を果たし、メキシコでは銅メダル獲得に貢献した。

東洋工業時代は主にMFとしてプレーし、高い身体能力を持ち合わせロングパスを駆使するゲームメーカーで、またプレースキックやPKの名手とも言われた[4][5][6]。相手チームから小城にはボールを絶対に渡すなとマークされた[7]。 代表では主にDFとしてプレーし、その恵まれた身体能力で相手FWのマークを担当した[4][5]。

また、気性の激しい選手として知られ、負けん気の強さと地道な努力で、フィジカル・トレーニングを真剣に取り組み強靭な体を作り上げた[4]。「ヤツは重量挙げの選手に転向したんじゃないか」という冗談が囁かれたという。「釜本がキレたら小城が抑えるが、小城がキレたら誰も抑えられない」という逸話が残っている。

その後
1977年に選手キャリアを終え、東洋工業監督に就任。オイルショックの影響による親会社である東洋工業の業績不振に伴い、チームは全盛期から衰退しつつあったが、就任直後リーグ戦4位と久しぶりにAクラス入りを果たし、翌1978年には天皇杯準優勝など一時的に建て直しに成功した。退任後、東洋工業/マツダにそのまま勤務し、また地元サッカー教室でサッカー指導にあたっていた。

定年退職後は再びサッカー界に戻り、2007年まで日本サッカーリーグ・マッチコミッショナーを務めた。2003年より広島市立己斐上中学校でコーチとして活躍している[16]。2005年、野村尊敬のあとを受け広島県サッカー協会会長に就任した[17]。

2006年、日本サッカー殿堂入り[18]。2017年、旭日双光章を受章した[19]。
引用元:小城得達 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%9F%8E%E5%BE%97%E9%81%94